渋滞:2002年8月1日
 納品などでたまに東京に行くと、渋滞の洗礼を受けることになる。
 私は渋滞がきらいである。もっとも好きな人はいないだろうから、人並みに嫌いということかもしれない。地方に引っ越して嬉しかった事のひとつは渋滞がないことだった。計算どおりに目的地まで行けるというのは、なんと気分のいいことか。
 その日は、月曜の朝一番で神奈川県の藤沢まで納品に出かけた。
 群馬から藤沢へは、関越道で練馬まで行き、そこで高速を降りて環八か環七で東京を縦断しなくてはならない。そして再び高速の第三京浜、横浜新道と乗り継いで行く。今回は、東京で設計事務所をやっている平賀さんが藤沢まで同行してくれることになっていたので、途中平賀さんの事務所にも寄った。

 月曜の朝ということもあってか、東京は練馬の出口から大渋滞。車は止まっているばかりで、たまにしか進まない。暇つぶしに隣に並んだ車を見ていると、みんな慣れっこで用意がいいというか、雑誌や漫画を読みながら運転している人が実に多い。中には文庫本を読んでいるサラリーマン風の人もいる。あいにく私は何の用意もないので、ただひたすら我慢の身となった。
 前から渋滞に会うたびに思うのだが、渋滞もこれはこれでなかなか平等なことなのだ。会社員も学生も、お抱え運転手のいる高級車に乗った社長さんや議員さんも、みんな同じく渋滞には列をなして並ぶのである。全員が等しく被害者であるからこそ、また同時に渋滞の加担者でもあるという立場上、短気を起こすこともせず、じっと耐えているに違いない。渋滞からは忍耐と平等の精神を学ぶのである。

 高速を出たあと環七も混んでいて、世田谷の平賀さんの事務所に着いたときは、工房を出てからすでに4時間経っていた。しかしまだ行程の半ばでしかない。この先藤沢に着くのはいったい何時になるのやらと安じたが、そこからは平賀さんが裏道を教えてくれたおかげもあって、すいすいと走った。藤沢にはだいたい予定どおり着いたのである。
 住宅街の中にあるHさん宅は二度目で、以前納めたテーブルにも4年ぶりに再会した。
 納品を終え、さて帰る段になって、平賀さんが「せっかくここまで来たんだから海見て帰らない」と言う。男二人で海もないんじゃないの、とも思ったが、どうせこの時間に帰ってもまた渋滞に引っ掛かるだけだしと承諾。

 住宅街の狭い路地を走って、「江ノ電」が道路の真ん中を通る商店街を抜けると、一気に海に出た。いつ以来だったか、海を見るのは。
 「ああ」と思わずため息が出そうになる。海に出会ったときの、この胸郭の広がるような感覚はどうだろう。むかし、ヒトがヒトになる前からずっと、この感覚は変わらないような気がする。
 信号を左に折れて、海岸沿いの道を鎌倉に向かって車を走らせた。このあたりの地理に全く不案内な私に、平賀さんが「あれが稲村ヶ崎、これが失楽園の舞台となったホテル、向こうに見えるのが鎌倉の材木座海岸・・・」と見えるたびに教えてくれる。
 おのぼりさんの私が「ふーん、ふーん」と、いちいち頷く。

 梅雨:2002年7月11日
 朝起きると窓の外を見て、また雨かと思う。
 こぬか雨。
 家から眺める小幡の八幡山の松も、水蒸気の向こうで淡墨の滲みぐらいにしか見えない。
 
 独り工房で仕事をしていると、日々の変化は乏しいのである。訪ねて来る人も稀なら、電話機が鳴ることも稀。それでも天気が好ければ、気持ちもいち日晴れるのだが。
 こんな雨の日は誰か人に会わんものかと、思わないでもない。

 夕方、近所のホームセンターである人と目が合った。その人がチョコンと目線を下げて私に挨拶をしたので、私もチョコンと頭を下げた。男性はそのまま行ってしまったのだが、確かどこかで会った人なのに、誰だったか思い出せない。しばらく考えてみたものの思い出せず、すっきりしないままその日は暮れた。
 結局つぎの日の朝になってやっと、「ああそうだ、あのときの・・」となった。
 それほど沢山の人に会うような仕事でもないのに、人の名前がなかなか憶えられない。

 ある所へ打ち合わせに行って、そこに居合わせた別の人から「私もちょっと頼みたい物があるの」と言われた。以前二回ほど仕事をしたことのある、いわばお客さんなのだが、いきなりそう言われて相手の名前が出てこなかった。
 作ったものを二度その人の家に届に行き、上がってお茶をいただいて、しばらく話もした。そんなに古いことでもない。家の場所も、家の中の様子もはっきりと思い出せるのに、名前だけが出てこない。いまさら改めて名前を聞くのも失礼だしと、あせった。
 その場で30分ほど話をしたのだが、けっきょく名前は思い出せずじまい。こんなとき本人からうまいこと名前を口にしてもらう会話の術はないものか、などと考えた。
 そのあと急いで工房に帰り、名前を探したのは言うまでもない。まったく失礼なはなしである。

 人間が他人を憶える能力には、人それぞれ限りがあると、何かで読んだことがある。仮にその人の記憶する能力、つまりアドレス帳のようなものが3千人分あるとすれば、3千人までは難なく憶えていられる。しかしそれを超えると、満杯になった水が溢れ出るように、人の名前が記憶の中から漏れ出すという。
 だとすれば、私の場合はもう満杯なのか。それとも他人より記憶欄が元々少ないのだろうか。
  
 空き瓶:2002年6月21日
 台所に空き瓶がひとつある。
 ちょっとイイ瓶で、捨てるのももったいない気がして、しばらくとってあるのだが、べつに何かに使おうというわけではない。
 四角い縦長のガラス瓶を、波形にくねらせているところが変わっている。細く絞った注ぎ口にコルク栓。そのコルク栓の上に、木でできた球形の握りがちょこんと付いている。
 透明ガラスの瓶の中身は、淡い琥珀色のオリーブオイルで、中にひとつ真っ赤な唐辛子が沈んでいた。
 およそ実用的でない、唯々美しく見せようというデザインは、イタリア製だろうか。

 近ごろ、もったいないという言い方はあまりしない。私が子供のころは、もったいないは日常にあふれていたのだが、どうももったいないは格好の悪いことになってしまって、世間の隅に追いやられてしまった。
 代わって登場したのが、ちょっとニュアンスの違うエコロジーやリサイクル。こちらは惜しいとかもったいないといったその時々の気分ではなく、しっかりとした理屈の裏付けがあるぶん格好悪くない。なにより貧乏くさくないのがいい。
 私としても、もったいないは久し振りだったのである。

 さてオリーブオイルの空き瓶。コルク栓に付いた球形の握りは見かけない木である。何の木だろう、ひょっとしたらオリーブの木をロクロで挽いたものかもしれない。もしそうだとしたら洒落てる。
 
 ブックマッチ:2002年6月11日
 このごろ大きなものを作ることが増えた。
 先日高崎にある花屋さんに、長さ3、6mのテーブルを納品したのだが、実は最初、建築家の徳井さんからもらった店の図面には、1、8mのテーブルが二つ画かれていた。店の二階で、テーブルふたつをつなげて使うと云う話だった。
 ところが今年に入って1月だったか2月だったか、徳井さんが店のオーナーの川久保さんと一緒に工房に来られた時は、3、6mのテーブル一本で作ると、すでに徳井さんのハラは固まっていたようである。
 断っておくがそれほど大きな店ではない。細長い部屋の真ん中に、大きなテーブルをデンと据えるのである。
 以前にも、やはり徳井さんの仕事で住宅用の4mのローテーブルを作ったことがあった。その時はずいぶん無茶を言う人だと思ったものだが、今回はそんな前例もあったので、もう驚くことはなかった。何より1、8mのテーブルが二つよりも3、6mのテーブル一本のほうが見栄えがする。制作費もそんなには変わらないのである。

 さて問題は材料。出来れば二枚剥ぎでやりたいのだが、うちには見合うようなものがない。
 そんなに長くて、幅広の、ある程度真っ直ぐで、値段もそこそこの、そんな板が都合好く見つかるかどうか。

 建築材なら3mや4mが普通でも、家具用の木というと7尺(2、1m)ものが多い。広葉樹の場合は針葉樹の様に真っ直ぐ伸びることが少ないし、途中で枝分かれもする。7尺ぐらいの長さなら、ある程度真っ直ぐなものが取れるということがある。また一般に、テーブルにしろキャビネットにしろ6畳とか8畳の部屋で使うには、大きいものでも6尺(1、8m)ぐらいの長さである。材料も少し余裕をみて7尺あれば大抵の仕事は間に合った。
 必要以上に長いのも取り扱いに困るので、たまに4mの丸太を買うことがあっても、あとあとの置き場所などを考え、半分に切ってから製材していた。
 でも最近は6畳とか8畳といった部屋割りをせずに、広いワンルームの空間を作る人が多い。天井が高くなれば部屋も広く感じる。そうやって場所の制約が無くなった分、家具も大きくなる訳で、特にテーブルに関しては、食事をしたりお茶を飲んだりするだけでなく、そこで新聞を読んだりテレビを見たり、勉強をして仕事をして居眠りもするという、今や生活のメインステージである。どうせ注文で作るのなら大きい方がいいというのも解る。

 見つかった花屋さんのテーブルの板は、アサダという樺の仲間だった。持っていたのは懇意にしている材木屋さん。どこで伐れた木か聞きそびれたが、たぶん群馬県内の上野村あたりの原生林に、すっくと生えていた樹ではないかと思う。
 少し無理をしたが二枚剥ぎのブックマッチにした。ブックマッチというのは、本を開いた様に製材した板の隣どうしを対称形に使うやり方である。
 板が弓なりにゆっくりと曲がっていて、弓形の腹どうしくっつけるのだが、まともに剥ぎ口の直線をとると板幅を随分詰めなくてはならない。そこで、二枚の板の両端はくっつけて、真ん中は笹の葉の形に空かせた。
 ブックマッチにしたことで、ピンク色の心材と白っぽい辺材のコントラストが際立った。長さが3、6mもあると、立っていた樹をそのまま横倒しにしたような力強さである。
  
 八ツ橋:2002年5月17日
 日本に木の種類は何百とあるのだろうが、この辺りの原木市場に並ぶ樹種はそれほど多くない。思いつくまま数えてみても、30ぐらいしか浮かんでこない。どれもみな、木を扱う人にとってはお馴染みの木ばかり。しかし時には珍しい木に出会うこともあるものだ。
 先日久しぶりに市場に行ってみると、ニッキというのがあった。ニッキ飴のニッキである。
 実は初めて見る木ではない。そのザラザラとした木の肌に見覚えがあった。
 子供のころ近所の家の庭にニッキの大木があって、幼な友達とよくその木に登って遊んだのだ。もうすっかり忘れていたが、ニッキの木肌を見て古い記憶が甦った。木に取り付いた時の、チクチクと腕を刺す感触が懐かしかった。
 ニッキの木に登って、その枝先を口に含むと、香ばしい匂いが口中に広がったのである。

 たぶん35年ぶりぐらいに再会したニッキ。なかなか買い手が付かず、あちこちの市場を渡り歩いてきたのか、外皮が所々はがれ落ちている。ここの市場にやってくるのは材木屋か大工や木工屋で、まさか食材屋さんは来ないだろうから、杉や楢や欅と一緒に並んでいるのも場違いに思えるのである。
 堅そうな外皮の、はがれかかった所をつまんで折ってみた。チッと乾いた音がして、親指の爪ほどのかけらが折れた。かけらは、色も反った形も京都の「八ツ橋」に少し似ている。口に含んでみると、もう嬉しくなるほど紛れもないニッキの味。
 そのかけらをポケットにしまい込んで、市のあいだ時々取り出して舐めては独り悦に入った。

 本で調べてみると、ニッキは俗称で肉桂(ニッケイ)が正式の名とある。皮を香辛料に使う。匂いが強いので、クスノキ科とあるのもうなづける。クスノキは一度使ったことがあるが、加工したあと工房中に樟脳の匂いが充満して、それが2、3日消えなかった。同じように、ニッキも切ればニッキの香りが強烈にするのだろうか。そうだとすれば、ちょっと凄いことになりそうな気もする。

 ここの市場は競り子が一本ずつ競っていく。もう残りも少なくなり、そろそろ市も終わりに近くなった。あのニッキはどうも売れなかった様子である。
 ぽつりぽつり、帰りの車に向かう人もいる。そんな中に、何かしっかりと手に握り締めて歩いて来るおじさんがいる。
 目のいい私はすぐに分かった。ニッキの皮、それもカケラなんかじゃなくて「八ツ橋」ぐらいあるのが、片手に握りきれないほど。
 たぶんおじさんには、ニッキ飴を作ってご近所に配ってあげたいとか、何か特別な事情があったに違いない。

 私のニッキのかけらは、車の運転席の横に置かれて二、三日香ばしく匂った。半月も経った今はもう匂わなくなったが、それでもまだ口に含むと、かすかに35年前の味がする。

 墨壷:2002年4月28日
 墨壷を買いに行った。
 大工なら線引きの道具として墨壷は必需品だが、家具作りの私は、あれば便利かなと思う程度で持っていなかった。代わりに竿みたいな定規を作って、長い直線を引くときはそれで間に合わせてきた。
 今回作り始めたテーブルは、その竿よりもはるかに長くて3,6メートルもある。いよいよこれは墨壷が必要かと買いに行ったのだ。

 墨壷といえば品川の訓練校で木工を習い始めたころのこと。実技室で左隣に削り台を並べていた羽鳥さんが、変わった道具屋さんを見つけてきた。羽鳥さんが乗る駅の近くにあったその店は、道具屋の主人が亡くなって残された道具類を奥さんが売っていた。奥さんがパート勤めの合い間だけ店を開けていたので、普段は閉まっていることが多く、たまに開いていることがある。そんな店だった。
 間口二間ほどのその店をオバチャンの店と呼んで、訓練校の道具好きの仲間が何人か、学校の帰りにめぼしい物はないか探しに通った。私も何回か行った。
 その店の、ショーウインドウと言っていいのか、通りに面したガラス棚に、小ぶりな墨壷がちょこんと置かれていた。普通の墨壷をふたまわりぐらい小さくした、片手に納まるような大きさ。実用品というより、飾り物なのかもしれない。赤い、目の詰んだケヤキを、腕のいい職人が彫ったことは遠目にも見て取れた。
 売り物なのかオバチャンに聞くと「あれはちょっと売りたくないんだ」という返事。何か特別な思い入れがあるのかと、それ以上は聞かなかった。また例え売ってもらえたとしても、私の小遣いで買えたかどうか、疑わしい。
 墨壷が欲しいと思ったのはそれ以来のことである。

 本来自分が使う墨壷は大工が自分で彫ったもので、道具屋で買うようなものではなかった。しかし大工でもない私が自分で作るなんて大それたことは考えない。隣町のホームセンターへ車を走らせた。
 ホームセンターにあった墨壷は二種類。ひとつは、昔の大工が使っていた伝統的なものを型採りして、複製したタイプ。黒いプラスチックのボディーに、ご丁寧に鶴亀の彫刻まで付いている。
 もう一方は、糸巻きから出た糸が墨溜りを通るという構造は同じでも、全体の形を今風にしたもの。こちらは格好はまあまあなのだが、蛍光オレンジと言うのか、色がどぎつい。現場で見失っても直ぐに見付けられる様にとのメーカーの気遣いも、これは老婆心。もうちょっと普通の色にならんのか。
 今になって、オバチャンの店であの時買いそびれたことが悔やまれる。
 鶴亀か蛍光オレンジか。二者択一を迫られ、蛍光オレンジを買って帰った私は、早速3,6メートルの板に墨を打った。墨壷を使うのは初めてのことだったので、糸を弾く時は少し緊張した。
  
 桜の話:2002年4月12日
 誘われて、花見をしたのは三月の末のことで、いつもの年ならまだ今時分は桜の盛りのころなのに、今年はもうとっくに散ってしまっている。少し遅れて咲く山桜なら、今が見頃かもしれない、ともかく暖かい年である。

 2月の中頃、知らない女の人からの電話で、庭の桜の木を伐るのでその木を使って何か作れないかと、問い合わせがあった。東京の人である。植えて40年程経っている、いろいろ思い出もあるしという話だった。
 長いこと春秋を共にした桜の木を、訳あって伐らなくてはならない、伐った木はせめて家具にして遺したい。素朴な、とてもいい話なのだが、私の答えはそのとき風邪をひいていたせいもあってか、さえなかった。

 まず木を見てみないと、使えるかどうかは何とも言えない。見てみて、まあまあの木だったとして、木の運搬や製材、乾燥とコストがかかる。それで仮に小さいテーブルのひとつも出来たとしても、ずいぶん高いものについてしまう、それでも構わなければという話なんですが。
 せっかくの夢を壊さないように、そんなことを回りくどく説明していたら、聞いてた方はじれったくなったのか、「それじゃ出来ないっておっしゃりたいんですね。」
 じっさい難しいのである。

 その電話の一年ほど前にも、知り合いから同じような話があって、それは県内のそう遠くないところだったので木を見に行った。
 やはり木は桜で、植木屋さんが切り倒した一抱え程の木が二本積んであった。しばらく眺めて、まともな板がどれぐらいとれるか考えてみたが、結局やめといたほうがいいだろうと言った。たとえ木は只だとしても、そのあとの時間と費用は同じように掛るのだから、そこそこの木じゃないと却ってもったいない。

 桜は確かに家具材だが、使うのは一般に山桜のほうである。
 桜に限らず、山の木と庭木あるいは里の木とでは、育ち方がだいぶ違う。
 森の中では生存競争が激しいので、木は光を求めて上へ上へと伸びる。生き残る為にはともかく高い所で葉を繁らせる必要があるが、庭では競争相手がいないかあっても少ないので、木は枝を張って横へ広がっていく。枝が多いということは、板にすれば節が多いということになる。また切った枝の木口から雨水が入って、中が腐っっていることもある。
 それと伸び伸び育った木は、年輪が粗く、成長層であるシラタの多い木に成りがち。桜の場合、シラタは使えないこともあるので、そんな木の価値は高くない。
 木は、庭とか畑の中とか、好い条件で育つと好い材にはならないのである。

 さて電話の桜の話は、また何かあったらよろしくということで、それっきりになった。せっかく夢のある話だったのに、ちょっと連れなかっただろうか。話に乗っていればいたで、何とかなったなと、今ごろになって想うのだから私も随分な愚図である。

 イニシエーション:2002年3月30日
 楢のテーブル板を鉋(かんな)で仕上げる。
 滑らないよう手に湿り気を与え、鉋身をぐっと握る。板面に鉋を押し付けながら、逆目を起こさないようにゆっくりと引いてくる。木が堅いと自然、力も入る。刃が切れなくなったら研ぎなおして、また板面に向かう。そうやって何度か繰り返すうち、2時間も鉋を引いていると、腕は張るは肩は凝るはで、えらくくたびれる。板に押しつけながら引くというのは力が要る。

 今使っているようないわゆる台鉋は、もともと日本には無かったらしく、15世紀ごろ大陸からもたらされたと、ものの本にある。。それまでは槍鉋というので木を削っていた。台鉋は日本に伝わった当初、押して使うものだったらしく、カンナ台には握り棒がついていたという。
 今の西洋の鉋は押して使うが、押すのと引くのとどちらが楽かといえば、鉋に自分の体重を載せられる分、押す方が楽な気がする。また写真で見ると、西洋の鉋は金属製の台が全体に丸みを帯びて、手にすっぽり納まる感じ。握り易くするため、台にへこみやグリップのようなものが付いているのも親切である。
 その点日本の鉋は、ただ四角い樫の台に刃が刺さっているだけの作りで、実に素っ気ない。使い手の負担を軽くしようとか、握り易くしようとか、そういった発想があまりない。どうだ使えるものなら使ってみろと言わんばかり。
 
 実際、使いこなせるようになるまでに、いくらか時間がかかる。
 これは鉋に限らないが、まず刃の研ぎが難しい。最初の内はなかなかうまく研げなくて苦労をする。
 それから鉋台が木で出来ているため狂いやすく、また木は使えば磨り減るので、しょっ中台の微調整が要る。台直し鉋という調整専用の鉋まである。また刃の裏出しとか裏押しとかいって、ここでは説明する気も起きないような面倒なことも、たまにしなくてはならないのだ。
 そんなこんなで、半年で少しは使えるようになる人もいるが、一年たっても全然だめな人もいる。
 もちろん鉋ができるようになったら一人前というわけではなく、今になって思えば一種のイニシエーションみたいなもので、ただ板を削るという木工の最も基本的なことを覚えるのに、半年も1年もかかるのはどうかという気もする。そのため大きな木工所では、手鉋などはまず使わない。そういう所ではまた別のやり方があるし、他に覚えることが幾らももあるに違いない。

 ところがである。ひとたびこの鉋を覚えてしまうと、なかなか重宝な道具なのだ。機械と違って融通が利くし、ちょっとの仕事ならこのほうが速い。もう鉋なしで木工は考えられない。そう思うころには、持っている鉋の種類も数も増えて、それを何丁か壁際に立てて並べておくと仕事場らしく見えてくる。腕も上がったような気がしてくるのである。

 鉋は日本に伝わって間もなく、当初あった握り棒がなくなり、押す鉋から引く鉋に改まった。それから後何百年のあいだ、二枚刃の鉋が出た以外基本的にはほとんど変わっていない。
 使いやすさなど、これっぽっちも関心がなかったみたいに、何百年間、その切れ味という性能だけを、黙々と磨き上げていったのだろうかと思う。それにまた、使い手に媚びないで難しい道具のままいることが、この国の職人の求道的な気分に合っていたのかもしれない。
 そんな職人たちの眼に長い間鍛えられてきたからか、鉋は、凛としたところがあって美しい道具である。

 熊蜂:2002年3月17日
 昨晩のこと。幼稚園に通う娘に、冬眠をする動物は何かと聞かれて、「熊と、ヘビとカエル」と答えると、もっと他にいないのと言う。「蜂も冬のあいだは見かけないから、冬眠してるのかな」。
 そう言ってはみたが、冬のあいだ蜂がどうしているのか、本当のところはよく知らない。

 そして不思議なこともあるもので、翌朝工房に行くと、玄関を入った所に熊蜂が二匹、床にころがっていた。死んでるのかと思って靴の先で触ると、物憂そうにゆっくりと動いた。朝まだ寒くて体が動かないのか、それとも羽化したばかりなのだろうか。ずんぐりと大きな体の割に、心なしか羽根が小さいようにも見える。
 その二匹の熊蜂が何処から来たのかは、すぐに判った。
 入り口に立てかけてあるクルミの板に、熊蜂の開けた穴が幾つも空いている。小指がすっぽり入りそうな穴が、木の白太(しらた)のところにあちこち空いていて、熊蜂はそこから転がり出てきたのだ。

 立てかけてあるクルミの丸太を買ったのはおととしで、たまたま立ち寄った市場に、ずいぶんと見てくれの悪い木があった。
 山で切り倒されてから半年か1年ぐらい、何かの理由でそのまま放置されていたらしく、木の皮は落ち、白太の部分は腐れが入って、外側はもう既にぼろぼろ。でも切り口を見ると、内側の心材のところはまだしっかりしていそうで、これはちょっと掘り出し物かもしれない、こんな見てくれの悪い木を、あまり材木屋さんは買いたがらないだろうと考えた。

 案の定、買って製材してみると、外側は腐りかけてふかふかしたカステラのようなものだったが、中はきれいな木だった。製材した板は工房の西側に桟を入れて積んでおいた。
 それが去年の夏ごろ、熊蜂がその白太のふかふかに目をつけて、何処からか飛んできては盛んに穴を開け始めた。開いた穴の下に木屑がこんもりと山になっていて、気にはなっていたが、どうせ白太は使いものにならないし、熊蜂も心材のところは硬くて穴を開けられないだろうと、放っておいたのだ。
 そのクルミの板が乾き上がって、今何枚か入り口の所に立て掛けてある。寒くなって蜂も見かけないし、もういないのかと思っていたが、穴の奥で冬眠していたらしく、暖かくなって出て来たのだ。

 見ていると、熊蜂は黒いふわふわした毛に覆われ、胸のところだけ帯を巻いたように黄色くてなかなか可愛い。これがスズメバチなら見つけ次第退治するところだが、この二匹は外の芝生の上に出してやることにした。世の中見てくれも大事である。
 熊蜂は、陽が高くなって体が温まれば何処かへ飛んで行くに違いない。
 そして、工房の丘にもまた春が来たという事らしい。

 投書:2002年2月12日
 また新聞に投書が載った。12日の朝日新聞の「声」の欄。投書マニアかと思われるかもしれないが、そうではない。投書したのは二回きりで、その二回とも掲載されるという確率の良さ、なのだ(自慢)。
 投書(メール)したのは2ヶ月も前のこと。その前日か前々日に、オオタカの巣が見つかったブナの森を切らないでという小学生の文章が載って、この投書はそれを受けたもの。
 投書の下敷きとして、次のような話があった。
 去年、木工仲間の大川君が幼稚園のロッカーを作る仕事を受けて、いくらかまとまった材木が必要になった。大川君が普段使っていた、国産のブナが欲しいと沼田の材木屋さんに電話すると、そのころ新潟のブナの伐採地でオオタカの巣が見つかり伐採が止まっている、ブナは高騰していて無理だという材木屋さんの返事だった。ロシア産の楡ならなんとかなりそうということで結局、ロシアの楡で作ることになった。
 
 例によって、新聞に載ったものは編集されたので、ここは原文を載せることにする。

 先日、ブナの森を伐らないでという投書がありました。それにつて別の視点からひと言。
 私はいま国産の広葉樹を使って家具を作っていますが、二年前に営林署が一部の例外を除いて国有林の伐採を止めてから、原木市場に並ぶ木は、樹種、量ともに一気に寂しいものになりました。
 現在、家具や床材、ドアなど私達の身の回りにある木は、ほとんどが輸入されたものです。
 日本は、中国、ロシア、東南アジア、北米、アフリカと世界中から良材が集まる、木の大量消費国なのです。
 材木業者に聞くと、既に中国では主だった所を伐り尽くして、いまロシアの原生林を日本向けに伐っているそうです。伐った後の植林も行なわれていない様子です。またアフリカからは、数十キロ四方に一本あるかないかというような樹齢数百年の巨木が、盛んに日本に輸出されて来ます。
 中国で最近頻発する洪水やロシアの永久凍土の破壊も、こうやって原生林を切り尽くした結果と思われますが、まだこれらの国では野生動物の保護や自然保護よりも、経済問題が優先するのが現実です。

 ごく大雑把な言い方をすれば、日本は自国の森を守る代りに、よその国で禿山をつくっているように見えます。豊かな森林を持つ国のこんなわがままが、いつまで続けられるでしょうか。
 日本もアメリカやヨーロッパの一部の国のように、自国の森の計画的な伐採と育林による、木材の自給を目指すべきだと思うのですが、現在流れは全く逆の方向に向かっているようです。
 入札:2002年2月3日
 たまに覗く原木市場に集まる顔ぶれを眺めてみても、若者と呼べるような人は見当たらないし、ここもだんだんと高齢化していることは否めない。

 市のある日は、お昼近くに始まるので、来場者には弁当が出る。市場によっては、景気付けに缶ビールなども振る舞われるというから、景気の良かったころは原木市もさぞ賑わったのだろうが、今は静かなもので、湿りがちな話声がぼそぼそと聞こえてくるばかり。弁当や缶ビールのサービスぐらいでは、なかなか財布のヒモはゆるまないらしい。
 輸入材に押され、国産材を扱う材木屋は、今や衰退産業なのである。私が使う広葉樹の取引きに限って言えば、もう風前のともし火、大げさではなく、いつ消えてもおかしくない。

 木の売り買いは、普通1立方メートル(立米)幾らというように体積単位で行なわれているのだが、原木市の入札は、年寄り(失礼)が多いせいか、今でも石(こく)単価だ。もっとも普通の人に「石」と言っても誰も知らない。あの徳川時代の千石船の「石」、体積の単位である。
 丸太に貼り付けてある伝票には、いちおう石と立米とが併記されているのだが、札(ふだ)を入れる時は石いくらである。1石とは、1尺(約30cm)×1尺×10尺のことで、30cm角で長さが3メートルの柱があれば、ちょうど1石ということになる。
 石も慣れれば難しくはないが、ただ面倒なのは、一般の木材の流通はとっくにメートル法になっていることで、例えば石幾らで買っても、納品書は立米幾らで書かれて来たりする。同業の日常の会話でも、立米と石が一緒に使われるので、必要ならそのつど換算しないといけない。ちなみに1石は約0.27立方メートルで、3.6石が1立方メートルに当る。
 話をしながら、両方の数字が頭の中を行ったり来たりする。

 こんな原木市場で地元の木を買い、それを使って仕事をしていることが、あまり気に留めてくれる人はいないけれど、私はちょっぴり自慢なのだ。それに、その日何にも買わなくても、広い土場(どば)に並べられた木を一本一本見ているだけで、結構楽しいのである。

 何日か前、市場でいつも会う、懇意にしている材木屋さんから電話があった。翌日工房に来る約束をしていたが来れなくなったと言う。いつもと違って、今にも消え入りそうなか細い声。どうかしたの?と聞くと、前々から何度も痛めている腰を「またやっちゃったんだよ」、「しばらくは、出かけられそうにないから」と弱々しい。材木屋さんも還暦を過ぎて、もう無理がきかない歳なのだ。
 そんなことを聞くたんびに、丸太買いもいつまで続けられだろうかと思う。私の足元も、何だか薄ら寒くなるのである。
 棕櫚(シュロ):2002年1月18日
 毎朝犬の散歩をする道に、棕櫚の木が一本転がっている。2メートルぐらいの長さの幹が、畑の脇に捨てられて転がっている。
 幹の毛が抜け落ち、砂ぼこりをかぶっている様子からして、ここに捨てられて半年ぐらいは経っているように見えるのだが、毎日同じ道を歩いていても、案外見ていないもので、気が付いたのは最近のことである。

 「シュロ」という響きが変わっている。木の名前はふつう、ナラ、ケヤキ、ヒノキ、クリのように和名で、棕櫚のような漢名の木は珍しい。他に漢名で想いつくのは、槐(エンジュ)や花梨(カリン)、黒檀や泰山木、南天などで、どれも渡来した木である。ちゃんと調べた訳ではないが、棕櫚もお寺の鐘突き棒に使われているのをみると、古くに仏典や法具などと一緒に大陸から持ち込まれたのかと思う。
 棕櫚は南方の椰子科の木だという。どこかエキゾチックなところが好まれてか、よく庭木に使われているのを見かける。
 他にも、毛を綯って、今も植木屋さんがよく使っている棕櫚縄を作ったりする。

 子供のころ、家の裏の草やぶの中に、棕櫚の木が一本立っていた。
 真っ直ぐに伸びた幹は、上から下までふさふさとした毛に覆われて、木のてっぺんにだけ、団扇(うちわ)の骨のような葉っぱが、濃い緑色に繁っていた。子供にとっては、背丈の何倍もある、見上げるほど高い木だった。

 幾つぐらいだったろうか。小学校の二三年だったか、あるいは、もう少し上だったかもしれない。昔のことで、前後のことは全く記憶がなくなっているが、そのシーンだけは鮮やかに憶えている。
 ひとつ違いの兄と二人、その棕櫚の木の根元でマッチを擦っていた。兄の見ている前で、家から持ち出したマッチを擦ったのは、私のほうだった。何でそんなことをしたのか解らないが、子供の好奇心には分別も何もない。
 何度かマッチを擦るうちに、思いも寄らずか、それとも期待通りというべきか、幹をびっしりと覆った毛に火が着いた。ボオッという轟音とともに、火は一気に下から上へ幹を駆け登った。棕櫚の木が瞬く間に火柱に包まれる。
 火を着けた本人の、想像を遥かに超える出来事だった。
 火柱の前で身じろぎもできず立ちすくんでいると、次の瞬間どう云う訳か、火が消えた。火は、幹の毛をアッという間に燃やし尽くし、そして何事もなかったように消えてしまった。
 燃え上がってから消えるまで、ほとんど瞬きをする間もなかった。
 恐怖や後悔など、いろんな想いが頭の中を駈けめぐったのは、そのあとのことである。とんでもないことをしてしまったという思いと、何でもなくて良かったという安堵感が一緒にやってきた。

 そこで、記憶は途切れる。
 それから、くすぶっている木に兄と二人で水を掛けていたのか、それとも引きつる顔で家に逃げ帰ったのか。まるで憶えがないのである。
 余韻:2002年1月7日
 朝、工房に来た時には、まだ昨夜の仕事の余韻が作業台の上に残っていた。
 仏壇は、もうすぐ完成というところだった。パーツはほとんどでき上がっていたし、その日最終的な組み立てをして塗装をするつもりでいた。
 納品の約束をしていた月末が近づいていたこともあって、前の日は珍しく遅くまで残業をした。何とかその日で終わらせる筈だった。
 
 体にいくらか疲れがあった。きのうの夜の続きを始める前に、完成間近の仏壇を作業台の上に置いて、少し離れて眺めた。
 これまでにも、途中途中で幾度となくそうやって眺めては、全体のプロポーションや木の使い方を、確かめながら進めて来ている。
 いつも、作りはじめる前に図面を画いてデザインの確認をするのだが、今回の様に初めて作るものは、図面上では決められないところがどうしてもある。
 手を止めては眺め、眺めては考えして作っているので、日数も予想したより余計にかかっていた。デザインの迷いもあったが、なによりもう時間がなかった。
 
 一夜明けて、改めて眺めてみる。
 どこかおかしい。最初の頃からずっと迷っていた扉の下の抽斗と台輪のところのデザインが、どうもよくないのだ。そこはオーソドックスな形の方がいいんじゃないか、そんな気がするのである。この仏壇の形を考え始めた当初、没にして採用しなかったアイデアだ。今更遅いが、なんでそっちを採らなかったんだろうと、すこし後悔し始めた。
 もう今日にも完成というところまで来て、なにを今更である。部品の取換えで済む話ではない。最初からの作り直しになってしまう。

 そんな大それたことを考えなくても、このままでも、ちょっと手直しをすればいけるんじゃないかと、あれやこれや考えてみる。いろいろ角度を変えて眺め直している内に、昼近くなってしまった。
 私の意に反してデザインの変更は、やがて確信となっっていく。そうなると、この仏壇をこのまま作り上げてみようという気もだんだん失せていくのは、新しい物を手に入れると、昨日まで使っていたものが急に色褪せて見えるようなものだ。もう引き返すことができないのだ。

 こうなるともうしょうがない。
 これまで費やした時間も、昨日の残業も無駄にはなるが、駄目なものは駄目である。
 さっそく依頼主に電話をした。日曜日で家に居たWさんに、いきさつを説明して、作り直しをさせて欲しい、納期を延ばして欲しいとお願いをした。
 Wさんは、苦労をかけて申し訳ないと何度も言っていたが、それでも作り直すことに決めたことで、私の気は晴れた。12月も30日のことである。
 失敗作をもって、その年の仕事納めとなった。作り直しは年が明けてからである。電話をした後、自分でも不思議なくらい、何か憑き物が落ちたような身の軽さであった。
   
 仏壇:2001年12月26日
 私の生まれた滋賀県は浄土真宗の盛んなところで、昔は近江門徒と呼んで世に知られたらしい。
 似たような造りの家々が寄り添うように字集落を成している中で、郡を抜いて高く大きな屋根が見えれば、それが真宗の寺だ。
 集落のどの家も、たいていは田の字形の間取りである。家の奥の普段は使わない座敷に、床の間と仏間が、床柱を真ん中に挟んで並んでいる。その間口一間の仏間には、大人の背丈ほどもある仏壇がどこの家にもあった。
 家の中は、赤茶色いベンガラ塗りの柱と土壁で薄暗く地味だったが、仏壇の止め具をはずして黒光りのする折れ戸を開けると、中に金箔と真鍮の絢爛たる空間があった。
 
 私の実家にも大きな仏壇がある。これは父が買い替えたものだから、我が家にとっては二代目になる。
 私が確か大学生だったか、東京でひとり気ままに暮らしていたころ、久しぶりに実家に帰ると真新しい仏壇があった。古いものも大きかったが、今度の仏壇もそれに劣らず大きくて立派だった。
 何も今更こんな大きなものを買わなくても、と私が小言を言うと、父はいずれ自分がこの中に入るのだからというようなことを、ぼそっと呟いた。

 それから幾年もなかったと思う。父は下り坂を転げるように急に衰えだし、呼ばれて帰ったときは既に病の床にあって、程なく逝ってしまった。
 本当に仏壇の中の人になった。

 いま仏壇を頼まれて作っている。依頼主のWさんは東京に住むOLだから、作っているのは滋賀にあるような大きな仏壇ではない。もちろん凝った装飾のあるものでもない。
 この秋にWさんの家族で住む家が建て替えになって、和室に造り付けた収納棚に入る、小さな仏壇が欲しいということだった。高さが50cm足らずだから、ブックシェルフ形のスピーカーぐらいの大きさだろうか。

 いま私の住む家には仏壇がないが、Wさんに頼まれたこんな小さな仏壇なら、ウチにあってもいいと思う。ひところは父の写真もテレビ棚の上に立てかけてあったのに、最近見なくなった。居場所が無くなって何処かに仕舞い込まれたに違いない。
 仏壇は、余り装飾のないシンプルなものをという希望である。清らかで、品の好い仏壇になればと思っている。
  
 余白:2001年12月4日
 知り合いから送られてきたファックスには、すこし大きめに椅子の絵が描かれていた。絵のまわりに縦、横、高さの各寸法が書き入れてある。
 小さな椅子である。脚に障害がある乳児の為のもので、既成の椅子では具合が悪いらしく、オーダーで作ってもらえないかというのだ。知り合いのそのまた知り合いの、たぶんその子のお母さんの絵だろうから、描いた本人を私は知らない。
 鉛筆の線が、サッサッと勢いよく引いた風ではない。最初は薄く、そして確かめるように重ねた線が、ひとつのデッサンとなっている。
 おそらく幾度となく描いては消し、消しては描きして完成した絵。
 絵の上手い下手ではなく、こういう絵を見ると思いの丈が伝わってきて何とか実現してあげたくなるものだ。たとえ予算がきびしくても、たとえ時間を急ぐような話でも、何とかならないかと思うのである。
 私は絵を画いて来られると弱い。

 一般に、大人になればもう絵を描くことはほとんどないだろう。
 ところが何かをオーダーで作ってもらおうという時になると、口では充分に説明がつかなくて、それこそ中学か高校の美術の授業以来、久しぶりに絵を描くことになる。
 大人になると、自分の絵を他人に見せるのは、ちょっと恥ずかしいものだ。電話で要点だけ伝えて、後はお任せ、なんてやりかたもあるだろう。でも、「こんなものが、欲しい」、そういう思いを伝えるには、やはり絵が強い。

 お客さんから来る絵は様々である。
 切手画のように小さなキャビネットの絵もあれば、B4の紙いっぱいに書いた小抽斗の説明図もあった。どの絵も個性的なのは、画いた本人がそこに顔をのぞかせているからだ。
 埼玉県のYさんは、このホームページを見てメールをくれた人で、メールにパソコンで描いた棚の絵が付いていた。大きなオーディオ用の棚である。何度かメールでやりとりした後、最終的な図面も自分でパソコンで描いて(それもキャドソフトなんかでなくワードで描いて)送ってきてくれた。やっぱり若い人は違う、確か31歳だとか聞いた。

 私もアイデアを考えるときには絵をかく。また絵を描きながら考える。その巧拙はともかくとして、絵がどれも小さい。大きくても名刺大ほどしかない。あれやこれや思案しながら、広い紙に小さな右肩上がりの絵をいくつもいくつも描いている。
 他人に見せるものでなければ小さくても一向に構わないのだが、お客さんに見せるときの絵は、せめてもう少し大きく描こうと思うと、これが何か上手くいかない。頭と手が連動していないような、どこかちぐはぐな感じがして、妙に改まった絵になってしまう。
 出来上がって、自分でも下手だなと思う。

 考えてみれば小学校中学校のころ、教科書やノートの余白に何やらちまちまと小さな絵を描いて、退屈な授業中の暇つぶしをしていたのを思い出す。絵心がついた頃である。余白で絵に親しんだ私は、結局その癖が抜けずに、今も小さな絵を描くのだろうと思う。

 高校の「生物」の授業は、とりわけ退屈な時間だった。
 その授業になると、教科書とは別に副読本のような冊子がみんなに配られ、授業が終わるとまた回収された。たぶん本の数が少なくて、全校生徒の使い回しだったのだろう。
 退屈しのぎに、その副読本の余白にちょっとエッチな絵をかいて、隣にいた友達のTに見せると面白がってくれて、それから生物の時間はTと二人で副読本の余白にせっせと裸の絵をかいた。
 授業が終わるとそ知らぬ顔で本を返し、次の時にはたいてい別の本が来て、また描く。そのうちニヤニヤ笑いながら「これ、お前が画いたんやろ。」と言いに来るやつもいたが、シラを切ったのは云うまでもない。
 男子にはおおむね好評だったと思うが、女生徒からの評判は聞かれなかった。
 三十年近く前の話だから、さすがにあの副読本はもう使っていないだろう。「生物」の笹原先生も退官されたに違いない。親友だったTにもずいぶん会ってないが、どうしているだろうか。
 ちょっとエッチなおじさんに、なっていやしまいか。

 蔵:2001年11月22日
 工房から程遠くない所にその蔵はあって、側を通るたび気になっていた。民家の庭先にある、小さな赤レンガの蔵。
 赤レンガといえば、この辺りでは明治の初めに建てられた隣町の富岡製糸工場が有名だ。甘楽町にもこれと似たようなレンガ造りの蚕糸倉庫があり、今は歴史民族資料館になっている。ただし富岡製糸よりサイズはだいぶ小さい。こちらは大正15年建設とある。
 旧富岡製糸工場も甘楽町の蚕糸倉庫も、赤いレンガ壁と黒い屋根瓦のコントラストが美しい建物である。鉄製の窓扉が洋館らしくハイカラな感じがして、勝手な空想を言えば、ちょっと欲しくなる。

 気になる小さな蔵は、切り妻の瓦屋根をもつ建物で、偶然だが白倉という地区にある。妻側には赤レンガを下から上まで積み上げていて、棟下に鉛白で描かれたらしい家紋が雨風にかすれていて、時代がかる。
 正面はといえば、中央にある扉と扉の周りの壁は漆喰塗りで、残りは妻側から続くレンガ積み。窓のある裏側も正面と大体同じ作りで、赤レンガと白の漆喰が半々のツートンになっている。
 レンガ造りと漆喰塗りの土蔵を合体したような感じ。和洋折衷の、洋服を着てチョンマゲを結っているような、どこか愛嬌のある蔵なのだ。
 この蔵がいつ頃建てられたのかは知らないが、いずれの建物も、かつてこの辺りが蚕糸で沸いた時代の名残りには違いない。

 品川の訓練校を卒業して間もないころ、学校で教わっていた指物の山田嘉丙先生を訪ねたことがある。何日か前に母堂が亡くなられたらしく、その後のいろいろがようやく済んで、仕事を再開したばかりだと言われた。
 そんな折だったからか、仕事場で話を伺った後、近くの居酒屋に誘ってもらった。二人で歩いていると「ここがウチ(自宅)なの」、「これ、なんだと思う」と先生は指差した。二階建ての石造りの建物で、少し考えて「蔵ですか」と聞くと、そうだということだった。大谷石でできた蔵を改造したもので、当たり前だが窓もちゃんと穿ってあって、一見したところ蔵には見えない。
 山田先生はどこか粋な人なのだが、粋人ぶらないところが、東京の、それも下町の人らしい。

 話がそれた。レンガ造りから時代はずっと下る。
 ウチの工房の飼育小屋も養蚕の時代の名残りである。ただしこの建物が建った昭和も半ばを過ぎると、蚕糸が時代の花形であろう筈もなく、店子のぶんざいで大きな声では言えないが、安普請は否めない。
 隙間風が寒いだの、雨漏りがするだの、ヘビが出たとかムカデがいるだのと、普段ボヤいてばかりいるが、訪れて来る建築家の人にはこの小屋、なかなか評判がいい。
 むき出しのトラス構造(と云うらしい)と、明かり採り窓のある二段屋根。中は泥壁に漆喰ぬりで、外は板張り。
 建材で着飾って設備が重装備になってしまった現代の住宅。常日頃その設計に悪戦苦闘している建築家にとって、この小屋は建築の裸形を見るようで気が休まるのかもしれない。

 寒くなってきた。当工房にお出かけの折には、冬支度をお忘れなく。
  
 タンニン:2001年11月13日
 前回からいくらか間があいた。あいたからと云って誰がとがめるでもないが、この項の読み手の人がいるとすれば申し訳ないこと。気にはなっている。
 つなぎに、先日楢のテーブルを納品したNさんに書き送った、オイル仕上げについてのくだりを間に挟んで、とりあえずの時間稼ぎをさせていただく。

 N様
 オイル仕上げについて、ひと言。
 オイル仕上げは、木の風合いを生かす塗装方法として最近よく使っています。植物性のオイルを木に浸透させることで、塗膜をつくらずに木を保護するやり方です。
 この塗料は、このごろ問題になっているシックハウスの原因になるような化学物質を発生しません。
 キズやヨゴレが付きやすいのですが、却ってそれが使い込んだ味わいを作りだすと考えていただければ幸いです。

 使う上での注意点として、濡れたテーブルの上に鉄瓶などメッキのしていない鉄製品を置くと、木の中のタンニンと鉄分が反応して触れたところが黒く変色することがあります。アルミやステンレスとは反応しません。
 また極端に熱いヤカンなどは、直に置かないで敷きものをしてください。あとは普通に使ってください。
 使い始めのころ、引っかき傷が気になる様でしたら、オリーブオイルを軽く布に染み込ませて拭いてもらえれば、少しは目立たなくなると思います。
              甘楽木工房   西川 浩
 ラジオ:2001年10月23日
 朝から雨が降って少し肌寒い日など、仕事場に音がないのは寂しい。せめて、ふだん聞くことのないラジオでも点けてみようかという気になる。一人きりの職場にはたいていラジオの音が流れているものだ。
 ラジオがあっても滅多に聞かないのは、気に入った放送がないとか、機械を回すとラジオの音が聞こえないとか、理由らしきこともあるにはあるが結局のところ、静かなほうが好きなのだと思う。

 先日、「近くまで来ているので工房の場所を教えてほしい」という電話があって、道順を説明すると程なく若い二人連れがみえた。
 お二人は店かショールームのようなものがあると思って来られたらしいのだが、あいにくそう呼べるものはなく、ちょっと拍子抜けした様子。黙って見ているだけなので、「何かお探しですか」と聞いたがそうでもなく、それではと「木工の勉強をされているのですか」と聞いたが違うらしい。なにせ物静かなお二人だった。
 お互い黙っていてもしょうがないので、とりあえず工房に置いてある何年も前に作った展示会の出品作(売れ残りとも言う)と納品前のテーブルや作りかけのワゴンなどをまえに、一応説明らしきことを喋った。全く物静かな二人だったので、私が一方的にベラベラと話す展開になってしまい、計らずもどこかの展示場に迷い込んだ客と注文を取ろうと必死になる営業マンといった構図になった。
 注文なんかいらないといえば嘘になるが、そんなつもりではなかった。初対面の人と一緒になった場合、会話が途切れて沈黙が続くのはつらい。静まりかえった工房ではなおさらで、相手が喋らなければ私が喋るほかなかったのだ。

 以前工房に手伝いに来てもらっていたI君が、有名な木工作家の個展を見に行ったときの話を思い出した。
 木工作家氏は初対面のI君と同行の友人とを相手に家具や木工の話題ではなく、自分の好きな地方の海や山の話を延々と聞かせたという。しかもまたその話が面白くて、長年営業をやっていたI君によれば「あの話が聞けてあの(作品の)値段は安い」のだそうである。何かディナーショーでも観てきたような感想である。結局そこにいた間、作家氏は作品の説明などは一切しなかったそうで、「ニシカワさんも(作家のイメージが壊れるから)値段の話なんかしちゃ絶対ダメですよ」とI君に言われた。しかしそういう訳にもいかない。作家には人を楽しませる話術が必須であるらしかった。

 工房に来た二人連れは30分ほど居ただろうか。礼を言って帰った。車を見送ったあと、ベラベラとひとり喋ったことの後悔と軽い気疲れが残った。
 あのときラジオでも鳴っていたら無理して喋らなくても済んだのに。そう思ったのは何日も経ってからだった。

 丸太買い:2001年10月6日
 原木の丸太買いをするのは仕事上必要があってのことだが、それだけかと訊かれればそうとも言えない。半ばは楽しみもある。
 製材されて耳皮を落とした乾燥材(これを製品と呼んでいる)を買ってきて作るやり方もあって、効率のことだけを考えれば、むしろこちらの方がいいかもしれない。製品とはある規格に整えられているという意味合いだろうが、呼び方からしていかにも味気ないように、これには木を買う面白味は無い。その点原木は、一本一本が皆違った顔を持っていて飽きない。製材すれば色々な表情を見せてくれる。もちろん当り外れもある。それもまた面白い。
 面白いから道楽にもなる。
 もうそろそろ引退してもいいような歳の職人が「オレんとこは倉庫一杯(木を)持ってる」などと自慢話をする。それを使って何かを作るとか材木屋でも始めるとかいう話ではない。木を買う楽しみが高じた揚げ句、もちろん財力があってのことだから、私には縁遠い。

 朝、製材屋さんから電話があって、そろそろクルミを挽かないかと言ってきた。6月頃買った鬼グルミの丸太が製材所に一本だけ挽かずに残っていた。4ヶ月も預けっぱなしで気にはなっていたが、梅雨時に製材すると板にカビが生えて、そこが黒くシミになることが多い。クルミや桜のような木は特にシミになりやすい。できれば湿気が少なくなる秋まで製材したくなかったので、催促が来ないのをいいことに放っておいたのだ。
 電話で今から挽くと云うことになって、車で10分程の製材屋さんに出かけた。

 しばらく振りに見るクルミは、ひと夏越すと外皮が落ちて白太の部分が少し老けているが、痛んでいるのは外側だけで、もちろん中はなんともない。むしろ丸太のまましばらく雨にあてた方が、後で虫が食わず、乾燥のときの狂いも少ないから好都合なことが多い。もっとも製材屋さんにとっては、丸太を持ち込んでも直ぐに挽かないのは迷惑な話だろうが。

 今回のクルミは、それほど太い木ではない。もちろん銘木といった物でもないので、製材が始まってもさして緊張はしないが、これが立派な木なら(つまり高いお金を払った木なら)製材機の帯ノコが入るときは、胸が高鳴る。
 長さ4メートルの木を2m二本に玉切りしてから、三種類の厚さに挽いた。丸太を買う楽しみはここまでで、あとには工房に持ち帰って桟積みが待っている。

 伐採して何ヶ月も経った木でも丸太のままでは乾燥しないので、中はびっしょり濡れている。製材したばかりの生木と乾燥した後の板とでは、持った感じで二倍ぐらい重さが違う。この生木を、間に桟を挟みながら積み上げていくのは大変な重労働だ。工房の平場が広ければフォークリフトを使ってやれるんだろうが、ウチではちょっと無理。大きい丸太なら人を頼んで二人でやることもあるが、今回は話が急なこともあって独りでやった。

 秋口とはいえ昼時はまだ暑いので、陽が少し傾いた4時頃から積み始めた。厚く挽いた板は重くて一人では持てないので芝の上を引きずって運ぶ。持ち上げて桟に乗せるときも片一方ずつ。一人でやるといかにも能率が悪い。
 丸太一本分だから大した量ではないのだが思ったよりも手間取って、積み終わったときには日がどっぷりと暮れていた。後片付けもそこそこにして家に帰るころ、工房の東隣の丘から満月がぬうーっと上って、そういえば中秋の名月であった。
 地下室:2001年9月20日
 台風が通り過ぎた日の夕焼けは、ことのほか美しい。画家ボナールの色使いのようだと、車のフロントガラス越しに、紅く染まった切れ切れの雲を眺めた。ボナールは油絵を始めた高校生のころ好きだった。
 銀行の前を通りかかると、道端に銀行員が三人並んで、やはり夕焼けを眺めている。
 当節は銀行も暇なのである。

 工房の建物は昭和30年代の終わりごろ建ったらしい。誰かに聞いたわけではないが、入り口近くにある黒板の白墨消しに昭和三十九年五月と墨書してあるので、その頃と判る。昔の人はモノを買うと日付を書き入れた。
 さて、築35年も経っている建物にはめずらしく工房には地下室がある。かつて養蚕小屋だったころ、地下に蚕の餌の桑の葉を貯蔵したらしい。Tの字形の四方がコンクリートの部屋は、畳なら2、30枚敷けそうなほど広い。
 ただ段梯子(だんばしご)の上り下りが面倒ということもあって、今は何も使っていない。入り口の重い蓋を開けて中に入ることもめったにない。ちょっともったいない気もする。

 この地下室に台風のときや長雨が続くと水が溜まることは、以前下りたとき床に水溜まりの跡のようなシミを見つけて、薄々は知っていた。
 今回の台風は雨がずいぶん降ったし、地下室はいったいどうなっているんだろうか。前々から気になっていたが、久しぶりに段梯子を下りてみて驚いた。
 水溜まりどころの騒ぎではない。まるで温泉かプールのように、地下室が満々と水をたたえているではないか。段梯子の途中から、メジャーで水深を測ったらなんと60cmもある。さすがに地下水が染み出してきただけあって、透明度は抜群。真夏なら飛び込んで泳ぎたいほどだ。

 このまま放っておいて自然に水が抜けるのを待ってもいいが、何日もかかるに違いない。おじさん(大家さん)なら水中ポンプぐらい持っているだろうから、それを借りて水を抜いてやろうと、考えはすぐにまとまった。

 借りて来たおじさんの水中ポンプは、ちょっと年季が入ってはいたがパワーは充分ありそうだった。そいつを地下のプールに沈めて、回すこと5時間半。
 いったい何トンの地下水が溜まっていたんだろう。
 汲み上げた水を道路に流していたので、水道管でも破裂したのかと心配して見に来る人も出る始末。

 水が引いた地下室に下りて調べてみると、5、6箇所からまだ水が涌き出ている。コンクリートの床にもひび割れがあり、そこからもかなり染み出していて、見る見る間に水が溜まっていく。これでは汲み上げても汲み上げても終わりそうにない。イタチごっこなので、それ以上は諦めて水中ポンプを引き上げた。
 翌日、地下室を覗いて見ると、もう10cmほどの水深があった。

 しかし汲み上げた甲斐が少しはあったのか、その後雨が降らなかったこともあって2、3日で地下室の水は無くなった。思ったより早かったが、その間水溜まりにボウフラでもわいたのだろう。台風のあと、心なしか蚊が増えたような気がする。
 2000年9月〜2001年8月の工房日誌はこちら