三鷹の店:2001年8月20日
 木工を習い始めたばかりの人と話すことが時々ある。たいていは訓練校の生徒さんだから若い人ばかりとは限らないが、皆初々しい。
 話していると10年前の未だ初々しい自分がそこにいるようで、どこかこそばゆい。
 
 そのころは、自分の工房を持って仕事をしている人というのは憧れだった。そんな人に聞いてみたいこと、見てみたいことが山ほどあって、機会があれば会いに出かけた。
 将来の小さな夢と、大きな不安とで、もういいトシではあったが、頼りなげな胸の中は思春期の少年のようだった。
 
 展示会に来てくれたO君は品川の訓練校に通っていて、私の後輩になる。聞いてみると、10年前とは教えている先生の顔ぶれもずいぶん変わった。今も指物の山田先生は来ておられるとのこと。それから当時はいなかったが、三鷹で鉋(かんな)の台彫りをやっている伊藤さんが実演に来られるらしい。木工を習いたてのころ、伊藤さんの店で何丁か鉋を買ったことがあるので懐かしい。今79歳だという。もちろん現役。

 伊藤さんの店には5、6回行っただろうか。
 三鷹の駅を出て線路脇の路地をしばらく歩くと仕事場を兼ねた店がある。外から引き戸のガラス越しに、板の間に座って台彫りをしているおやじさんの姿がみえる。
 店の前まで来ると、入る前にひとつ深呼吸をした。
 道具を買う。習いたての若造にとっては緊張することなのだ。

 店は入った所が小さな土間になっていて、カウンターを前にして客はそこに立つ。カウンターの奥の板の間は6畳ほどで、三方の壁に陳列棚があり、鉋はもちろん鋸や鑿、玄能などの大工道具が中にびっしりと並んでいる。伊藤さんはそれらの道具類に囲まれて独り黙々と仕事をされている。
 「御免下さい」と言って中に入ると、仕事中の手が止まって、度の強い眼鏡越しにおやじさんの目が一瞬客を射る。「何か?」と、素っ気ない。
 ここで言っておかなくてはならないが、おやじさんは鉋台職人一筋で育った(父も鉋台職人)だけに、余計な愛想といったものが一切ない。聞かれたことには答えるが、それ以外のこことは喋らない、そういうタイプ。

 「スンロク(一寸六分幅)の平鉋を見せてほしいんですが」とあらかじめ用意しておいた台詞を言うと、おやじさんはさっと立ち上がり、陳列棚から鉋をひとつ取り出してカウンターの上にトンッと置く。私はそれを手にとってしげしげと眺めるのだが、おやじさんを前にして二の句が続かない。向き合ったまま間がもたずに困っていると、そこは好くしたもので、奥の方から「いらっしゃいませ」と奥さんが出て来てくれる。内心「ほっ」とする。
 鉋が決まると、おやじさんはそれを持って元の定位置に座り直し、鉋刃と台との馴染みを調整してくれる。この仕込みが最初のうちは結構固く、玄能で鉋刃を叩き込むといった感じで心配になるが、使っている内におやじさんの計算通り丁度いい固さに落ち着く。

 そうやって買ったお目当ての道具を手にし、店の外に出てやっとひと息つく。鉋ひとつ買うにも大汗をかいたころがあった。

 
 再会(前回の続き):2001年8月3日
 「(引き戸に挟まれるなんて)ヘビはバカなんですかね」。畑まで送る途中、助手席のフミヤスさんに聞いた。難局を乗り切った安堵感があったとはいえ(見ていただけのくせに)、我ながら子供じみた質問をしたものだ。
 フミヤスさんはそれには直接答えずに、こんな話をした。
 以前、屋敷内の土蔵を壊すときに屋根裏にずいぶんたくさんのヘビが住み着いていて、解体に来た職人がそれを疎んだ。それで、ヘビを捕まえては籠に入れて近くの川に捨てに行くのだけれど、どうやってかヘビが戻って来てしまい困った。そんなことがあったと。
 うれしくない話。これで一件落着と思っていた喜びもつかの間、話を聞きながら、籠いっぱいのヘビというのを思い浮かべて一人鳥肌が立った。

 それからしばらくは、朝工房に来たときも工房から外へ出るときも、ヘビがいないかと用心した。突然出くわしても驚かないように、心の準備だけはしておいた。
 しかし、用心もそう長くは続かない。

 ひと月ほどたった或る日、木を探しに工房の南側のトタンで囲った下屋(げや)に出たところでいきなり出くわした。今度は「うわっ」と、声を上げて驚いてしまった。
 青大将も不意を突かれたらしく、積まれた材木の下から半分体を出したまま動かない。よほど緊張しているのか、身体中の筋肉が縄目のように盛り上がっていてピクリともしない。
 お互いに固まったまま、目を会わせて向き合った。

 「バカ、帰って来るやつがあるか。」そう言いたかったが、言ってどうなるものでもなく、この1メートルほどの、やたら細長い物静かなヤツと、ともかくやっていく外ないと、腹を決めなければならない瞬間だった。

 しばらくそのままでいたが、どうもヘビに動く気配がないので、私のほうが後退りをして工房に入り、ガラス戸を閉めた。ガラス越しに見ているとヘビもほっとしたのか、先ほどまでの盛り上がった筋肉がすっと元に戻り、それから出発の合図のように舌を二三回チロッチロッと出して、ゆっくりと進んで材木の陰に消えて行った。下屋の乾いた土の上に青大将の腹の跡がうっすらと残った。
 
 来客:2001年7月24日
 最初の出会いはひと月程前のことで、唐突だった。
 朝、いつものように入り口の鍵を開けて工房に入り、後ろ手に引き戸を閉めた。戸が途中で固くなって閉り切らなかったのは、このごろ戸車の具合が悪いせいか。そう思った。それよりも何気なく中に入ったが、足元に何か黒い線を見たような気がして振り向いたら、ヘビだった。ヘビの尻尾だった。
 ガラス戸と壁の隙間に、細い組み紐のような尻尾が消えて行くところ。紐の端を巻き取るみたいに、長い尻尾は静かに消えて行った。
 ヘビの尻尾を跨いだのだった。驚いて声も出ない。

 しばらく振り向いたままの姿勢で固まっていたが、気を取り直してヘビが出て行ったかを確認に。
 こわごわ隙間を覗いてみると、まだいる。途中で閉まらなくなったガラス戸と壁との2cmほどの隙間に、ヘビはゼンマイを立てたような窮屈な姿勢で挟まっていて、暗い隙間にヘビの黒い胴が鈍く光っている。
 出ていかせようと戸をドンドンと叩いてみたが、ヘビは一向に動いてくれない。それならと引き戸を動かそうとしたが、ヘビが隙間に噛んでしまったのか戸も前後しない。どうもヘビも出ようにも出られないらしい。
 「どうしよう」、困った。
 ヘビは見るのも怖いのに、この隙間からヘビを引っ張り出すような荒業はとても出来そうにない。かといって、このまま放って置くわけにもいかないし。

 そうだ、フミヤスさんだ。
 工房に来る途中、畑で工房の大家さんを見かけたのを思い出した。
 急いで車に乗り、畑へ行って事情を話すと、おじさんは笑って来てくれた。

 おじさんは「どれどれ」、「はっはーん」、などと言いながら隙間を覗き込んでいる。棒で突っついたがやはりだめで、引き戸を外してようやくヘビは出てきた。出てきたヘビを素手で捕まえて、フミヤスさんは「青大将」と、一言。
 終始離れて見ているだけの僕は、「殺さないで」と小声で言うのが精一杯。もちろんフミヤスさんは殺すつもりなど毛頭なく、ぐるぐると腕に巻きつくヘビを50m程東の竹薮まで持っていって、急坂の藪の中へ放り投げた。僕は工房からその勇姿を見守った。全くもって、頼もしい大家さんなのである。                   (つづく)
 アイデア:2001年7月13日
 衝立て(ついたて)を頼まれている。
 その人は二間続きの奥の部屋を使っていて、暑くなると間仕切りの襖を開け放すので、目隠しになるものが欲しいとのこと。屏風のようなものではなくて一本立ちしたもの。夏用だからつい立ての中は格子で。と、ひと月ほど前にそんな打ち合わせをした。
 実は衝立てを作るのは初めて。どんなものを作ろうかと少し考えてみたが、その時は蕎麦屋か居酒屋で見かけるような物しか思い浮かばなくて、夏まではまだしばらくあるかと先送りしていた。
 いつでもいいからとは言われてはいるものの、連日の暑さで衝立てのことが気になりだした。そろそろ取りかからないと。

 初めてのものをデザインする時は、手元にある本や雑誌、メーカーのカタログなどを一通り見てみる。どれも飽きるほど眺めているから新しく発見するようなこともないが、一応気持ちの準備として見てみる。
 それから紙にスケッチを描き始める。大したアイデアは出てこない。当たり前である。いきなりそんな簡単には出てこない。
 いいアイデアは、ある時どこか上のほうから降りてきて、頭の中に音もなく貼りつく。そういうもので、搾り出したり強いたりして出てくるものではない。只それを見つけるだけなのだ。
 何かが貼りつくのを待つほかない。
 その時まで、工房の周りの草刈りをしたり、たまった紙屑を燃やしたり、犬のノミを取ったりして時間をやり過ごす。そうしていると半日ぐらいはすぐ経ってしまう。その間誰がとがめるわけではないが、ブラブラしているとどこか後ろめたさも付きまとう。貧乏性である。

 そのうちにいいアイデアが浮かぶかといえば、そうとも限らない。何んにも出てこないこともしばしばだから困る。「上のほう」の采配は気まぐれなのだ。時間にも限りがあるわけで、無理やり搾り出さなくてはならないこともままある。
 また、これはと思っても、練り上げていくうちにいろいろ問題も出てきてボツになったりもある。

 もの作りは案外こういう時間が長い。
 仕事を始めたころは、ある程度経験を積めばそんなに悩むことも無くなるかと思っていたが、そうでもないようで、その時どきに応じて迷いは尽きないものらしい。衝立てが出来上がるのは、もう少し先のことになりそうである。
 
 電話:2001年6月22日
 日に一度も電話が鳴らないことがある。ザラにある。
 そんなのでよく仕事があるものだ。自分でもそう思うが、不思議にも仕事は途切れずにあるのだ。
 しかしながら、あまりに電話がかかってこないと、世間から一人取り残されたような気持ちにならいわけでもない。離れ小島で独り仕事をしているような。やがて気分も沈んでくる。

 そんなとき久しぶりに電話が鳴る。
 出ると知った人である。いくらか話した後で相手に、だれか別の人が出たのかと思ったと言われることがある。声がいつもと違うと言われる。
 いつも一人で仕事をしているので、お客さんでも来なければ電話以外に声を出す機会はない。久しぶりに話すと、声のトーンが低くなるのかもしれない。テンションも低い。別に機嫌が悪かったわけではない。
 声帯もしばらく使わないと錆つく。

 かと思えば、一日に6回も7回も電話がかかってくることがある。いかにも繁盛しているみたいで気分がいい。
 たかが6、7回の電話で。単純なものだ。
 また、いつ電話しても僕がいないと言う人もいる。たまたま留守のときばかり電話しているのか。昼の1時から2時の間は家にご飯を食べに帰るので、この間は工房にいない。それと申し訳ないが機械を回していると聞こえないこともある。

 たくさんかってきても間違い電話も多い。ウチは憶えやすい番号のせいなのか、宅急便とタクシー会社の間違いが多い。
 電話にでると「○○だけど、3時に荷物取りに来て」などと、いきなり用件を言う人がいて面喰らったりする。
 以前車のセールスマンに電話番号がいいですねと褒められたことがあるが、考えものである。
 それと融資の持ちかけや、投資の勧誘、電話会社や広告会社の営業なども多い。この手の電話は長くて困る。切りたくてもなかなか切らしてくれない。初めのうちはいちいち付き合っていたが、最近はうまい方法を見つけた。
 たいていこういった電話は、「○○商事と申しますが、社長様でいらしゃいますか」と聞いてくる。
 「社長はいま営業に出かけています」とデタラメを言う。
 「何時ごろお戻りですか」とくる。
 「夜遅いと思います」。
 「そうですか。それではまた改めさせて頂きます」。
 これで逃げられる。

 そういうわけでウチは、毎日社長が夜遅くまで営業に走り回っていることになっている。仕事が途切れないのは、ひょっとするとそのせいかもしれないと感謝している。

 品川:2001年6月8日
 正式には東京都立品川職業専門校だが、一般的には以前の呼び方の品川訓練校のほうが通りがいい。木工の仲間内で「品川で教わった」といえばここのことで、品川だけでも通じる。
 訓練校の木工科は全国にいくつかあって、家具作りを志す人の入門塾のようになっている。まずは訓練校へいってみるかということで、10年前私もそうした。

 5月末の暑かった日、その品川で同窓だった松川君が工房へ訪ねてきた。卒業してから一度会ったきりで、7、8年ぶりになる。
 その間、毎年年賀状のやりとりはしていた。
 松川君はいま横浜で家具作りをしている。僕と同じころ独立して工房を持ったのだが、歳は僕よりひと廻りほど若い。一緒に若い助手も連れてきて、この人も来年はどこかの訓練校へ習いに行くらしい。

 品川の木工科には10代もいれば30代後半の人もいて、年齢にかなり開きがある。もちろん松川君は若い方だったが、僕は真ん中より上だったかもしれない。
 職歴もいろいろで、サラリーマンはもちろん、学生、花屋さん、自衛隊員、建築士、看護士に大道具さん。女性も二人いた。それぞれ働いていた時の月給の6割が失業保険として一年間もらえた。授業料はかからないから、これでなんとか暮らせるわけだ。
 とりあえず一年の猶予をもらって気分は平和だった。

 木工科はたいてい午前中が学科で、午後は実技をした。4時半には学校が終わる。普通の学校と同じように、遠足もあれば体育の授業もある。
 遠足は運河伝いに海浜公園まで歩いた。その日は神山君が折り畳み式のカヌーを持ってきて、遠足の途中で組みたてて運河で漕いでみせた。体育はみんなで品川駅前のボウリング場へいった。
 自分が通った年のことしか知らないが、その年は個性的な人間がそろっていて、木工の実力はともかく、面白さの点では品川木工科の「あたり年」だったのではないかと私は思っている。

 入学時に30人いた仲間も、卒業して10年も経つと今も消息を知っているのは4、5人でしかない。久しぶりに会った松川君とも自然とその話になったが、彼もその辺りは似たようなものだった。
 
 長火鉢:2001年5月29日
 いま長火鉢をひとつ預かっている。骨董の直しなど専門外のことなので普段頼まれることもないが、忘れたころにAさんが何か携えてやってくる。
 Aさんは本業は別にあって、プロの骨董屋ではない。趣味なのだが、他人にせがまれれば世話をすることもあるらしく、今回の長火鉢もそのクチらしい。
 Aさんは「いつでもいいから」と、品物を置いて帰る。そうは言うものの、一週間もたたないうちに「どう、できてる」と顔を出す。そんなに早くは出来ないので、少し待ってほしいと言うと「いや、急がないから」といって帰るが、何日かするとまた「近くに来たので寄ってみた」。
 たいてい出来るまでに、こうやって三、四回お会いすることになる。もう初老と言っていい歳なのだが、待つことが苦手。そして骨董のことになると、どこか無邪気である。
 
 長火鉢は江戸から明治にかけて作られた指物である。指物はおおかた決まりごとで作られている。
 預かったものは女の人が作らせのたのだろうか、ひとまわり小さいが、その他は型どうり。欅の杢板を蟻組みで箱に組んで、台輪など縁材に黒柿をあしらっている。組んだ箱に銅版(アカ)の灰桶を落とし込んで、枠縁をはめる。灰桶の下に二はい、向かって右側に三ばいの抽斗、持ち運びのため左右に彫り込みの手掛け、など。

  長火鉢の良し悪しは、欅の杢(もく)の具合で決まる。そう言っていい。使っている材料が良ければ、大体は仕事も上手なのだ。
 今回のものは杢の出具合もいまひとつ。「並のものですかね」と余計なことを口走るとAさんは、家には素晴らしい玉杢(たまもく)の長火鉢を持っているんだと力んだ。
 京都の芸者の置屋さんで使っていたものだという。
 申し分のない来歴。ここは、出所が素晴らしいと褒めるのが作法なのだろうが、私などは売り物にハクを付けるための骨董屋の作り話じゃないかと身も蓋もないことを考えてしまう。
 
 思うに、骨董好きは年配のしかも男が多い。金もヒマもかかる。それと玉杢を楽しみ、そういった「いわれ」を素直に喜ぶにも、ちょっと浮世を離れる必要がある。
 
 縄文人:2001年5月19日
 いつのことだったか、ずいぶん前のことになるが、何かの用事で高速道路を軽井沢方面へ向かって走りながら、窓の外のゆるやかに起伏のある台地を眺めていた。
 季節がいつだったのか思い出せないが、日差しがまぶしくて、空気が乾いているせいか風景の透明度が高かったのを憶えている。
 畑と林がバランスよく入り混じったその風景が、どこかヨーロッパの田舎(行ったことはないが)みたいだと思ったのは、日本の田園風景といえば、のっぺりとした水田地帯がイメージとしてあったからだろう。
 またその頃(今もそうだが)縄文遺跡に凝っていて、縄文人ならこういう台地に住みそうだと、同乗の妻に言ったような憶えがある。
 知らない土地の過ぎていく風景を眺めながら、こんなところに住むのもいいだろうなとぼんやり考えたが、その後そんなことも忘れてしまった。
 まだ神奈川の川崎に住んでいて、木工の勉強を始めたころだったかもしれない。

 やがて幾年か経験を積んだのち、独立して自分の工房を持ちたいと、方々を捜し始めることになった。
 どうして甘楽町に来たんですかとよく聞かれるが、実は東京から100km圏内ならどこでもよかった。やはり東京というマーケットは魅力だったし、実際仕事を始めたばかりの頃は東京の仕事が多かった。

 最初のうちは、休日を使って山梨県内とか神奈川県の藤野町や埼玉県の秩父などへ行ってみたが、ただやみくもに車で走っていても工房になるような建物は見つからないことがだんだん分ってきた。不動産屋にいけば貸工場や貸倉庫などの物件はあったが、地方へ出てもそういった建物は僕が借りられるような金額ではなく、それなら農家の納屋とか牛小屋を改造して工房にしようかと考えた。しかし、そういうものは何かツテでもなければ捜しようがない。
 そこで方針を変えて、女房が高崎市の出身ということで多少土地感のある群馬県に的を絞って、県内の町役場、村役場に当ってみることにした。 何件目かで甘楽町の役場へ来たときに、親切にも工房になりそうな建物を(個人的に)捜してくれるという人が現れて、その人からいくつか紹介してもらった内のひとつが、いま工房にしている養蚕小屋なのである。
 それから丸7年になる。

 先日、いつものように老犬と一緒に畑道を散歩して近くの高速道路まで来たときふと、何年も前に高速道路を走る車から起伏のある景色を眺めていたことを思い出した。
 今思えば、車から眺めた起伏はこのあたり特有のもので、あれは自分がいま立っているここの風景だったような気がして、小さく胸が騒いだ。
 そして毎日の犬の散歩の道すがら、縄文土器のカケラや黒曜石の石器なんかを随分拾ったのも、今となれば予想どうりだったのかもしれない。
 ヘビ:2001年5月2日
 甘楽町は南北に長く、その中ほどを高速道路が東西に貫いて町を北と南に分断している。
 分断といっても、どの道にも高速道路を横切る橋やトンネルが、それこそ農道に至るまで整備されているから、とりたてて不便を感じるわけではない。
 しかし小動物にとっては高速道路を横切って北へ、あるいは南へ行くのは至難だろうと思う。夜中こっそりと人間用のコンクリートの橋やトンネルを渡る他なく、それとて命がけのことだろうと思う。

 こんな埒もないことを考えたのは、家と工房の往復に使っている高速道路の側道で、きのうヘビを見たからである。
 想像するに、このヘビは南へ向かうべくはるばる来たものの、車やトラックが矢のように行きかう高速道路に行き当って、渡ることを断念。もと来た方へ引き返すところだった。

 車を止めて観ていると、ヘビは側道のアスファルトの急坂の上を、身をS字にくねらせてゆっくりと横切っていく。草の中や土の上と勝手が違うのか、空すべりして思うようには進まない様子である。
 やがて私のことに気づくと、それまでの何倍も速く身をくねらせ、あわてて草むらのなかへ消えて行った。

 こうやって側道でヘビに出会うことも度々ならば、車にひかれたヘビの死骸を見たことも一度や二度ではない。
 白状しよう。実は私も、車で蛇を踏んでしまったことがあるのだ。

 夏の夕方、薄暗くなりかけた頃いつもの側道を走っていた。
 下り坂で小さな木の枝みたいな物が落ちているなと思いつつ、よけずに踏んだら、「パン」とかすかに袋が破れるような音がした。瞬間、車のタイヤを通じて生き物を踏んだ感触が体に伝わって、「ひょっとしてヘビ?」と思ったがもう遅い。
 次の朝、車でゆっくり走りながら、ゆうべのあたりを捜したら、踏んだのはまだ20cmほどの子ヘビだった。

 子供のころにカタツムリを踏んでしまった時の感触は、いつまでも足の裏に残っていて今も消えないが、さすがにヘビは踏んだことがなかった。
 新ちゃぶ台:2001年4月21日
 ちゃぶ台を作ろうと思う。ただ昔と同じようなものを作るつもりではない。「新ちゃぶ台」である。
 うちでは今、ご飯は台所のテーブルで食べている。流し台に向かっていても振り向けばテーブルがあるので、作った食事をいちいち運ばなくて済む。機能的と言えるが、それだけ家が狭いとも言える。
 これはこれで便利なもので、あえてちゃぶ台で食事をしようと言うわけではない。
 さてご飯が終わると、夕飯の後などは特に、横になってゴロゴロしたくなる。ソファーも一応あるが、結局キッチンと続きの畳の間へ行って、肘枕をしてテレビを見るか、腹ばいになって新聞を読むか、仰向けに寝っころがって考えごとをするか、そんなところなのである。眠くなってそのまま寝てしまったリもする。猫みたいですこし行儀は悪いが、私の場合はこんな感じなのだ。一日立って仕事をしていることが多いので、家に帰ったときぐらい横になってゴロゴロしたいのかもしれない。

 椅子はやはり座るという機能の為にあって、椅子に腰掛けていても、せいぜい脚を組むとか座る向きを変えるかぐらいで、それほど姿勢のバリエーションがある訳ではない。その点畳の上は(床の上でも)座ろうが寝ようが構わないから、いちばん楽な姿勢で居られる。そんなくつろぎ方をするときに、ちょっとものが置けるちゃぶ台が欲しくなる。

 ちゃぶ台は先ず、丸いのがいい。丸は面積の割に圧迫感がない。それに座卓の様に四角だと、ゴロゴロしていて角が気になってしまう。
 そして軽いのがいい。軽ければじゃまな時は人が動かなくても、手で、あるいは足で端っこを押してやれば、すーっと向こうへ行ってくれる。軽いと、ひょいっと立てかけても置ける。
 ただし脚は折り畳み式にしないつもりで、昔のちゃぶ台もそうだったが折り畳み式だとどうしてもグラつく。今はどこの家も大きくなったから、ちゃぶ台を片付けて、そこに布団を敷くなんてことも少ないだろう。それと小さい子供でもいれば、上に乗ったりするかもしれない。脚は固定にしようと思う。
 
 ちゃぶ台が出来たら、最初のものは試しに自分で使うつもりでいる。
 夜、酒を呑みながら本を読んだり、朝の静かなときに(ノート)パソコンに向かったり。たまには星一徹よろしく、腹立ち紛れにひっくり返したり。は、しないと思う。
  
 学習机:2001年4月16日
「子供が小学校に入学なので学習机を作って欲しいんですが。」
 若いお母さんのKさんから電話があったのは2月のことで、「ともかく家が狭いので小さな机が欲しいんです。売っている物はみな大きくて。」と、おっしゃる。
 Kさんには以前ローテーブルを頼まれて、その納品のときアパートに一度うかがっている。社宅らしく確かに広い方ではないが、市販の机が置けない程狭い訳でもない。
 たぶん家が狭いこと以上に、子供が小さいうちは子供部屋とか大きな学習机はいらない、そういう考えなのだろうと話を聞いていて思った。育て方、暮らし方へのこだわりなのだろう。
 建物同様、家具も人それぞれのライフスタイルを表現する。ここはそう思いたい。
 具体的にどんなものにするかは、ひと月ほど考えて改めてKさんからファックスが来るということだった。

 今までも幾つか机を作ってきたが、どちらかと言えばみな大きい。
 その電話の話を聞いた時から「小さな机」がとても気に入って、この仕事をきっかけに新しい学習机をひとつ考えてみようと思い始めた。
 リビングとか台所に小さい学習机を置いてあげれば、子供はいつも親の側にいることができる。子供が使わないときはお母さんが使ってもいい。そんな暮らしへの提案がある家具である。
 ひと月の間、自分なりにデザインをあれこれ考えてたりして、Kさんがどんなアイデアを送ってくるのか楽しみに待った。

 ファックスが送られて来たのは3月も末のことで、そこにはいくつかの寸法が箇条書きされていた。
 天板の大きさは75cm×50cm、高さは72cm。引出しは要らないから内寸が8cmの棚をつけて欲しい。脚は4本脚。それだけである。 絵でも描いて送ってくれると思い込んでいたので、ちょっと拍子抜けしたが、ともかく内容の確認もあって折り返し電話をしてみた。

 「天板はあまり大きくないけれど、まあこれでいいとして、この高さは」と聞くと、「子供がまだ小さいので、ひとりで机に向かうのを嫌がる時もあると思うんです。そんな時は食卓テーブルの横にこの机をくっつけて一緒に勉強を見てあげたいので、テーブルと同じ高さにしたんです・・・。」

 電話の向こうの淀みない声を聞きながら、このシンプルなアイデアの偉大さを思った。机のカタチのことしか頭になかった私は、デザインはカタチばかりじゃないんだと、改めて知った。
 欅の地板:2001年4月8日
 ふだん欅(けやき)を使うことは、あまりない。その重厚さが好きだと言う人もいるが、私はどこか立派すぎると感じてしまう。

 今作っているMさん宅の食卓テーブルは、めずらしく欅の、しかも一枚板である。Mさんの古い家を壊したとき、取っておいた床の間の地板(床板)を使うのだ。板の長さが181cm、巾が83cmあって、ほぼ畳一枚分の大きさがある。
 
 古いものらしく、製材も木挽きが大鋸(おが)で挽いている。板の表の面は真っ平らに仕上げていても、裏は挽きっぱなし。まっすぐに挽いたものが乾燥するにつれ狂って、裏側はうねっている。27mm(9分)厚で挽いたらしいが、狂いが出た板を平らにしたので薄いところは15mm程しかない。  
 うねった裏側に吸い付き桟が四本入っている。そこだけ平らに削って蟻溝を彫っているあたりは、仕事に無駄がない。吸い付き桟を差し込むことで、薄い板に張りを持たせるとともに、根太の役目もさせている。丁寧なことに桟が緩まないよう、くさびまで打ち込んである。
 それと地板と床框を三ヶ所、コマを使って締結していたらしく、もうコマは失われているが、どちらにも寄せ蟻の溝が刻んである。
 そして、これらすべての仕事が手鋸と鑿と鉋だけで行なわれているのだ。
 挽きっぱなしの波打った板面に、一切の機械を使わないで、こうした難しい加工を手際よくこなしている。それも、こともなげに、と云った感じで。精度がいいから、吸い付き桟などは今でもしっかりと板に食い付いていて、盤面に少しも狂いが出ていない。
 地板が作られた当時(たぶん戦前)、これぐらいは当たり前の技量だったのか、それとも名人と言われるような人の限られたものだったのかは知らない。ただ、近年地板を合板で済ます様になって、こういった技術は要らなくなった。
 
 板厚が薄いので、このままテーブルにするのは難しいし、もう少し長さも欲しいとのことで、別の木で框枠を組んで、その中にこの板をはめ込んで作ることにした。
 裏側は必要な所以外は削らずに、みんなそのまま残そうと思う。上品な杢の表も美しいが、この板の価値は、大鋸の挽きあとや蟻溝が残る裏側にあると言ってもいい。
 有機農業:2001年3月29日
 買い物をしてお金を払うときに、財布の中の小銭がきれいにはけることがある。たまたまピッタリで、(いくらも入ってないが)札だけが残る。
 やったーという感じ。なにか清々した気分になる。
 過不足のない状態がうれしい、そういう性分なのだ。

 家具を作るとき、なるべく無駄を出さない様に木取っても、切り落としがでる。大きなものは残して、木っ端の小さい物は冬の暖房用にダンボール箱に詰めて取っておく。ここまではいい。
 さて加工に入ると今度は鋸屑、鉋屑がでる。(今、このあたりの作業は機械でやる。)たとえば板の両面を平らにするとき、鉋屑はけっこうな量になる。数物をやると、なおさらである。
 鉋屑はがさ張るので、置き場所もないし、冬まで取っておく訳にはいかない。しょうがないと思いつつも、長い間焼却炉で燃やしていた。
 これがどうもしっくり来なかった。

 工房の近くで、有機農業のたい肥を作っている畑があって、落ち葉とか刈った草とか野菜クズなんかが、山になって積まれている。その前を通るたびに気になっていた。ここで鉋屑を使えないか。
 たい肥を作っているのは知らない人だったが、試しに鉋屑を持って来てもいいか聞いてみると、欲しいという返事。
 やった−。捨てに来るだけなら、焼却炉で燃やすよりもずっと楽だし、だいいち気分がいい。

 たい肥を作っているのは同じ在所の吉田さんという人で、今度吉田さんの作るネギや玉葱は有機栽培の認定を受けた。と、これは最近の新聞に出ていた。
 ついでにもうひとつ。たまに道ですれ違う吉田さんの大きなトラクターは、年代物?のオレンジ色のフィアット社製。このデザインがなかなか渋いのだ。
 
 投稿:2001年3月24日
 きのう新聞に投稿が掲載された(23日朝日新聞「声」の欄)。下はメールで送ったその原文。長かったので、紙面に載ったものは幾らか削られている。
 編集の人の話だと、何かお礼が出るらしい。朝日新聞のスタジャンかしら。ちょっと期待している


 花粉症の季節になり、私も苦しんでいる一人です。
 今や杉はすっかり悪者扱いされている感があります。杉を植林しすぎたのがいけない。何とかしたらどうだと。
 しかし建築の周辺で仕事をして、住宅をいろいろ見ている者からすると、あまりにも杉を使わなくなったから増えたのだと思えてきます。
 いま山では戦後植えられた杉が、それこそ溢れんばかりにあります。
 それでも使われるのは輸入材ばかりです。

 100円でも単価を下げよう、一日でも工期を短くしようという住宅メーカーや施工業者の考えからすれば、杉より輸入材のほうが使い易いからでしょう。いわゆる工業化住宅ほど、この傾向が強いように思います。
 また施主も、家のどこに何の木が使われているのか、知ろうとする人は僅かです。たぶん国産材を一本も使わない家もあるんじゃないでしょうか。

 そこで、住宅の国産材の使用率を表示するようにすればどうでしょう。肉や野菜だって産地を表示して売っています。
 例えば構造材に80%、内外装材に50%といったふうに。そうすれば業者を選ぶ際の目安になります。
 関心のある人(せめて花粉症の人)は、国産材の使用率が低い住宅は建てないようにする。もちろん国産なら杉以外の木でもかまいません。木材の産地に仕事が増えれば、間伐や枝打ちもできるようになります。 

 最近は国産材で家を作ろうと取り組んでいる建築家や施工業者がすこし
づつ出てきています。もちろん花粉症対策でやっているわけではありませんが、こんな動きが全国的に広がれば少しは杉花粉も減るんじゃないかと思います。
 杉を切ったあとは、花粉の少ない杉を植林するか、それとも元の広葉樹の森に戻せばどうでしょうか。
 ちゃぶ台:2001年3月15日
 このごろ、ちゃぶ台が若い人に人気だと新聞に載っていた。東京のある店では月平均で50本近く出るらしく、学生や独身者が買っていくそうである。
 記事を読んでいて、このあいだ遊びに行った若い夫婦の家にちゃぶ台があって懐かしかったのを思い出した。買ったのではなく、おばぁちゃんの所から持って来たものだと言っていた。
 この家には、それとは別に大きなダイニングテーブル(これは僕が作った)もある。

 ちゃぶ台といえば「巨人の星」を思い出す。父の星一徹が激高しては、ひっくり返していたものだ。あの頃はどこの家でもちゃぶ台でご飯を食べていた。もちろんウチにもあった。

 若夫婦の所にあったちゃぶ台は、たぶん標準的なものだろう。おおよその寸法は、天板が直径2尺5寸(75cm)、栓(せん)の二枚剥ぎで厚みは5分(15mm)、縁はぐるりと甲丸に面取ってある。裏に幕板が四角く廻っていて、その内側に脚が畳み込めるようになっている。脚は1寸5分(45mm)の角棒の外側二面をゆるく曲線にそいで、それが唯一の意匠と言っていい。全体の高さは8寸5分(25.5cm)ぐらいか。

 今見ると子供の頃の印象よりはるかに小さい。それと思っていたよりかなり低い。座卓の標準的な高さが30cmから35cmだから、このちゃぶ台は随分低く感じる。25cm程だと酒卓にはちょうどいい高さかもしれない。
 長い間日本人は銘々が膳で食事をしていた。(いまでも宴席ではこれが多い)それを思えば、この位の高さが違和感がなかったのだろうか。それとも幕板の中に脚を畳み込まなければならず、脚の長さに自ずと制限があったからか。

 いずれにしても本当に小さな円卓である。これを囲んでで一家四人がご飯を食べていた。今から思えばママゴトのような風景である。

 ものの本によると、ちゃぶ台が普及したのは明治の終わりから大正、昭和の初めにかけてで、家父長制の時代が終わり、西洋に真似て一家団欒の気分が芽生えてくる頃らしい。家の中での序列がなくなり、家族みんながひとつの鍋を突っつき合う時代になった。
 そういった背景を考えると、星一徹がちゃぶ台をひっくり返していたのは、失った父権を取り戻すパフォーマンスだったのかもしれない。最後の武士の血が騒いだのだ。

 しかし、程なく板の間で食事をする椅子とテーブルの生活が登場して、ちゃぶ台ははかなく消えていく。そして星一徹の時代も終った。 
 名作椅子:2001年3月6日
 テーブルは僕が作ったもので椅子はデンマークの名作椅子、このパタ−ンが(残念ながら)結構多い。先日納品が終わった太田のHさんの家も、クルミ材の大きなテーブルはうちで作って、6脚の椅子は家族のめいめいが専門店で気に入ったものを買われた。
 子供用に同じデザインものを3脚、大人用のアームチェア−3脚はそれぞれ違ったもの。お馴染みの椅子もあれば初めて見る椅子もある。4種類のデンマークの椅子は僕が言うのも何だが、やはりどれも完成度が高く美しい。(ついでに言っておくが値段もいい。)
 そのうちの2脚の座面が少し高いので、脚をつめてほしいと頼まれていた。
 
 一般的に西洋人は日本人より足が長いし、そのうえ家の中でもクツを履いた生活である。せいぜいスリッパ履きで居る我々には、輸入された椅子の座が高いのは無理もない。
 個人差はあっても日本人にはだいたい42cmぐらいの座面高がちょうどいいと思うのだが、今の西洋の椅子は45cmぐらいのものが多い。
 日本の椅子でも45cmの座面高で作っている所もあって、こういうのは店舗向けの設計なのか輸出仕様なのかその辺は解らないが、3cmも高いと座った感じは全然違ってくる。

 例えわずかでも脚の長さをつめると椅子のプロポーションが変わってしまい、これはデザイン上好ましくないのは承知している。かといって下駄を履いて腰掛けてもらう訳にもいかない。
 別の用事もあったので、簡単な治具をつくって脚を切りに行った。

 普通に座ってもらって見てみると、かかとが床から少し浮いた感じで、やはりちょっと高い。一脚は1cm、もう一脚は2cm切ることになった。

 椅子を手前に置いて、道具を脇に並べて床に座ると、どこか儀式めいてくる。ここは名作椅子だけに少し緊張する。始める前に「ほんとうに切っていいですか。」改めて確認をしてから鋸を入れる。
 やってみればそれほど難しいことではない。切り終えたあとを丁寧に面取りして、そつなく終了。これ、もちろんサービスである。 
 箱を頼む:2001年2月24日
 額の注文があって、それを入れる紙箱を作ってもらった。
 この額の話をもらったのは実は去年のことで、モノはとおに出来ていたが都合で納品が延びのびになっていたのだ。
 やっと2月になって箱を頼むことになった。数もしれているし(50個)予算もないのでそう多くは望めない。品が良くてしっかりとした箱ならそれでよかった。
 紙箱を頼むのは初めてなので、とりあえず電話帳を見てみると、いくつか載っている。中でそれらしき所に電話をかけてみた。

 最初に電話をした箱屋さんは、声からすると60歳ぐらい。受話器の向こうで機械の音がしていて、家族でやっている様子である。
 ひととおり話をした後一度伺いたいと言うと、それはかまわないが、土曜、日曜は休みだからとか5時以降はダメだとか御自分の都合をおっしゃる。客の都合は聞かない。
 もちろん夜中に訪ねる気は無いし、ごもっともなことだが話の感じは今ひとつよくない。箱屋さんにしてみれば50個ばかりの注文では半日仕事にもならないのは分るが、それでも一応は客である。
 経験から言うと、こういった対応の仕方は、長い間固定した得意先だけを相手にしてきた人に多い。他人に頭を下げる必要もなくやって来れたのだと思う。実際会ってみるといい職人さんなのかもしれないが、ここは電話の様子で察するしかない。

 今回、箱を作ってもらったのは2回目に電話したところである。
 うって変わって電話の向こうは、丁寧で腰のひくい物言いの人だった。やはり家族でやっているらしい。翌日伺うことにして場所をファクスでお願いすると、定規で描れた実に律儀な地図が送られてきた。
 この人なら面倒がらずに話を聞いてくれるかもしれない。

 次の日の昼ちかく、狭い路地を入った住宅地のなかにある作業場へ伺った。通されたところはお世辞にも広いとは言えない部屋に、材料の紙や機械類と打ち合わせ用のソファーとが同居していて、洗濯物までぶら下がっている。このあたりいかにも街工場らしい。
 話をした人(社長さん)は50歳ぐらいだろうか、電話のときの様子そのもの、丁寧で謙虚な方だった。余計なことは言わないで、必要なことを分り易く説明してくれる。間違っても初対面の客に「ウチで作ったものはヨソと違って・・・」などと腕前をひけらかすことは言わない。その辺の節度はわきまえておられる。
 15分程の簡単な打ち合わせでも信頼できそうな気がしてきて、ちょっと当りくじを引いた様でうれしくなる。
 額の箱はまた何かに使うこともあるだろうと思い、少し余分にお願いした。

 話はここまでで充分なのだが、付け加えれば、一週間ほど経って出来てきた箱はしっかりとした、素人目に見ても丁寧な仕事がしてあった。 
 シックハウス:2001年2月19日
 きのう高崎で講演会があって聞きに行った。主催は地元の住宅建設会社で、こういう場合はたいてい建て主の獲得が目的だと思う。とりあえず当方にその気はないが、そんなことはお構いなしに出かけた。無料(このへんは立派)である。
 
 話し手は二人(社長の演説を入れると三人)いて、聞きたかったのは「環境ホルモンとシックハウス」について青山美子さんというお医者さんの話。
 青山さんはかなり早い時期からこの方面の研究をされていて、病気との関連を指摘してきた人、らしい。こう書くと、学会の権威か学究肌の活動家みたいだが、実物はちょっと威勢のいいおばちゃん(失礼)と言った感じの方である。内科、小児科の医院をやっておられる。

 このごろはシックハウスについて本も幾つか出ているし、建築やインテリアの雑誌でもたまに特集を組むので、そういったものを拾い読みして何となく解っている気でいた。ところが話を聞いて再認識、ちょっと簡単に考えていたかもしれない。
 青山さんの話は、実際医療の現場で見てきた人だけに説得力がある。いくつかの症例と、原因と思われる家や場所をスライドを使って説明された。

 最近はアレルギーや喘息の子供がたくさんいて、その原因のひとつは住宅内外から来る化学物質によるものだろうし、また生殖異常とか精神病、ガン、奇形児なども化学物質の影響が考えられる、と言うような話をされた。
 これらの有害な化学物質の多くは建材や農薬からガス化して長期間に渡って空気中から体内に取り込まれる。食べ物からは思ったより少なくて、個人差はあるが10%ぐらいらしい。有機野菜とか低農薬米とか、食べ物に気を使っていてもシックハウスに住んで居てはなんにもならないと言える。
 また農薬とか除草剤の散布を頻繁に行なう農地や公園(このあたりでは児童公園にも除草剤をまいている。同じことを東京でやれば苦情が殺到するのではないか。)に隣接した家も気をつけたほうがいい。それらはガス化してしまえば窓を閉め切っていても入り込んで来てしまう。シックハウスの原因は外からもやってくるのだ。くれぐれも家を建てるとき土地選びは慎重にするように、ということだった。
 こういった化学物質に対する反応は個人差がとても大きくて、同じ家に住む兄弟でも症状がでる子と出ない子がいる。一般的には神経の働きが弱った老人より、神経が過敏な子供に現れやすい。また、外へ働きに出る男性より家に居る時間が長い主婦にシックハウス症が多いという。
 家の中でガス化した科学物質は目に見えないので原因の特定がむずかしく、他の理由による病気だと思われているケースもあるらしい。

 大事なことは、家具も含めて自然の素材を使った家づくりをすること。そして住環境から有害化学物質をすこしでも減らすことだろう。特に妊婦や幼い子供のいる家庭では、これはとても大切なことだと思う。

 (この話題は、また新しい情報があればそのつど紹介していきたい。)
 4メートルの鯨:2001年2月12日
 数日前から大きな一枚板を作業台に引っぱり上げて削り始めた。長さが4メートル余り、巾は90センチ、厚みが7.5センチある秋田杉で、去年太田市のHさんの家から持って来た。いわゆる持込み材である。
 Hさんは家を新築するにあたり、建築家の徳井さんと一緒に秋田まで杉の原木を買いに行かれたらしい。直接出向けば、気に入ったものが流通を省く分だけ安く手に入る、このあたりは徳井さんのアイデアである。
 この板は製材したその原木の一番巾の広いところに当る。
 この鯨のように大きな板は二ヶ月ばかり工房の入り口付近に居座って、たまにある来客を驚かしていた。
 納品まで時間があったのと乾燥もいまひとつだったので、しばらく手を着けずに置いた。

 いよいよこれをローテーブルに仕上げる。
 とは言っても、これほど大きな板を手掛けるのは初めてで、木工をやっていても日頃そう目にすることはない大きさである。なにせ4メートルもあると作業台に乗せるだけで大仕事になる。
 なんとか引っぱり上げてみると作業台よりはるかに長くて、頭と尻尾がはみ出している感じである。
 これを電気鉋と手鉋を駆使し、板ににしがみ付くようにして削っている。いかにも素朴なやり方だが、ここはこれしか他に術がない。機械は規格外の物は通すことが出来ないので、こう云った場合使える道具はおのずとシンプルな物に限られてくる。
 板が大きい分、削る量も半端ではない。鉋屑が山のように出る。半日も格闘していれば体中が筋肉痛になって、木工もこうなると体力勝負といえる。
 ひとり黙々と削っていると、なにやら鉋屑にまみれて板にしがみ付いている自分の姿が、巨大な鯨に挑む「白鯨」のエイハブ船長にダブってくる。
 (映画「白鯨」の主演はアンソニー・クインだと思っていたが、調べてみたらグレゴリー・ペックだった。昔の記憶は当てにならない。)
 
 自転車:2001年1月31日
 土曜日は大雪になった。このあたりでも30センチ近く積もった。おかげで水曜日になってもまだ雪景色のなかにいる。
 道路の雪はあらかた解けたが、朝晩は路面が凍るので車では危なっかしい。工房まで自転車で行き来している。幸い天気がよくて強い風も吹かないので気分はいい。
 たまには自転車も悪くない。
 手押し:2001年1月28日
 木工仲間のSさんが塗料をとりに来た。
 前の日、もう届いているからと電話をしたら、明日受け取りに行くという返事だった。この前会った時に、一緒に買ってほしいと頼まれていて、いつでもいいと言っていた割には、随分取りに来るのが早い。年中忙しいのに、少しは暇ができたのか。
 
 現れたSさんは、めずらしく髭面で、右手に包帯をしている。
 「えっ、ケガしたの」、聞くと「手押しでやっちゃたんだよ」と言う返事、いつもの元気がまるで無い。手押しというのは、板を平らに削る機械のことである。
 見るからに落ち込んでいるので、それ以上は聞かなかったが、厳重に巻かれた包帯を見れば、ちょとした切り傷でないことは察しがつく。
 相手が機械だけに、木工の場合擦り傷切り傷では済まないことが多い。
 今月は、別の知り合いも丸ノコ盤でケガをしたと聞いている。
 
 木工はほんとうにケガが怖い。 
 他人事でもケガをしたと聞くと、一瞬身体に震えが走る。
 ぼくも以前勤めていたときに一度やっていて、それからもう十年近く経つが、話を聞けばその時の記憶が甦ってくる。

 ケガがなくて、日々のやるべき仕事があれば、家具づくりはそう悪い仕事ではないと思うのだが、難しい。
 
 寒波:2001年1月15日
 朝8時をまわっても、工房の温度計は、まだマイナス2度。寒波が来ているのだ。

 けさは、中に汲み置いたバケツの水も凍っている。砥ぎ場の水も、犬の飲み水も、カチカチに凍った。こんなことは初めて。
 当然ながら、何をやっても寒い。
 犬の散歩に表へ出ると、寒さで耳が切れるように痛い。
 帰って来て、砥ぎ場の氷を割って鉋刃を砥いだ。あまりの冷たさに、しばらく指先の感覚が戻らない。
 
 こう寒いと、なかなかストーブから離れられなくなる。ちょっと仕事をしてはストーブに戻り、暖まったら行って、またすぐ戻るの繰り返し。
 フットボールの試合みたいに、ワンプレーごとにベンチに帰ってくる。

 これじゃ情けない。仕事にならない。今月は忙しいのだ。
 で、古い石油ストーブを引っぱり出してきて、薪ストーブとの2台体制にした。これで少しは違う。

 それと、こういうときはストーブもいいけど、着込むのが手っ取り早い。
 上は、厚手のセーターのうえに中綿のジャンパー。下はズボンのうえにオーバーズボンと、靴下を二枚重ねにして、中がボアになった長靴をはいて、首も寒いのでタオルを巻いてと。
 完全な着ぶくれ状態、まるで越冬隊のようなイデタチ。
チェーン:2001年1月8日
 今朝暗いうち、目がさめたら何か妙に静かで、それに外が明るい気がして、不思議に思って窓を開けると雪だった。初雪である。15センチほど積もっている。
 雪の日は、「さあどうしよう」と思う。
 工房までどうやって行くか。歩いて行くにはちょっと遠い。2キロほどある。車で行くにも、途中二度登り坂があって(下りが一度)、うちの車でここを登るにはチェーンが要る。
 どうしようというのは、このあたりの道は雪が降っても、日が昇って昼近くなれば、雪も解けて普通に走れるようになる。それなら、昼まで待つかと考えてしまう。なにせ、チェーンを巻くのは面倒この上ない。めったにしないので、うまくできるかどうか。
 いつだったか前回は、やっと巻いて道に出たら、もうおおかた解けていて悔しい思いをした。
 と、ここまで書いて、夜が明けた外をあらためて見たら、まだ、ちらちらと降っている。これでは昼まで待っても解けそうにない。
 雪の降る中でチェーンを巻くのも嫌だし。さあどうしよう。
 いっそ休むか。
クラフト展:2001年1月4日
 5日から、毎年恒例の木工クラフト展が始まる(9日まで、高崎シティーギャラリー)。群馬県ウッドクラフト作家協会展という、名前は長くていかめしいが、要は県内の木工仲間のグループ展である。毎回20人ぐらいが出品する。

 話はさかのぼるが、こちらへ来て工房を立ち上げたころは、地元のことがなにも分らなくて、ずいぶん苦労した。材木の調達に始まって、塗料や金物、機械、刃物、道具、目立て、などなど木工もさまざまな店や業者を知っていないと仕事にならない。初めのうちは、必要なものがあると、いちいち電話帳で調べて電話をかけ、地図帳をたよりに場所をさがして行くという具合で、やっとの思いで訪ねてみても、当てが外れて無駄足というのも度々だった。
 知らない土地でひとりでやっていては、モノひとつ探すのもたいへんなのだ。
 仕事を始めた翌年だったか、木工作品展があるというのを新聞で見つけて出かけたのがきっかけで、この会のメンバーに入れてもらった。次の年から僕も出品することになって、木工仲間がいっぺんに増えた。
 それからもう5、6年が経つ。
 今では、分らないことも仲間内で聞けば、たいてい誰かが知っていて教えてくれる。機械とか材木の情報も、どこからか入ってくるようになった。数は力になるとつくづく思う。
 来て早々、こういう仲間ができたのは幸運だった。

 脇の話が長くなった。この展示会の本来の目的は、もちろん作品の発表と販売である。売れればうれしいが、正直言って、あまり売れた記憶がない。ただ、注文をもらうことはたまにある。個展と違って、いろんなタイプの作品を見て、人も選べるから、頼みやすいのかとは思う。
巳:2001年1月1日
 へび年である。生来、へびは苦手のほうで、犬の散歩などしていて出くわすとドキリとする。
 ここへ引っ越して来たころは、工房の近くでもよく見かけた。このあたりの土地はなだらかに傾斜していて、あちこちに石垣が組んである。そういうところに、へびは住みついているのかもしれない。東には大きな竹薮もある。
 工房のまわりには、製材した板を、桟木を入れて積んでいる。いちど、その板と板の隙間に、へびの抜けがらを見つけたことがある。長くて立派なものだった。

 ところが去年は、工房でも、畑の道を散歩していても、不思議とへびを見なかった。
 ここ何年かで桑畑がほとんど姿を消して、野菜畑に変わったから、へびの居場所がなくなったせいもある。
 それと去年は、春先にずいぶんと雉が鳴いていた。いつもの年より目立って多かった。雉はへびも食べるというから、雉が増えて、へびは減った。と、まあこれは想像。

 さて、今年はどうだろうか。巳年ということで、雉もすこしは遠慮があるかもしれない。
からっ風:2000年12月19日
 きょうは風が強い。
 他所の土地から、群馬県へ来て驚くのは、やはり冬のからっ風ではないだろうか。
 12月ごろから4月ぐらいまで、北西の強い風が、日中ずうっと吹く。どう云う訳か夕刻にはピタリとやんで、翌朝10時頃また吹きはじめる。
 ここ甘楽町でも、工房のあるところは、台地状に一段高くなっていて、しかもまわりは畑、遮るものがないぶん吹き方も容赦がない。
 ほとんど台風なみに吹く。

 長いこと雨が降らずに、来る日も来る日も吹き続けると、畑の土が砂漠のように乾燥して、それを風が舞い上げて、ときに視界がほとんど利かなくなることがある。
 砂嵐である。
 あたりの景色は、黄色い砂けむりの中に呑み込まれてしまう。飛行機に乗っていて、分厚い雲に突っ込んだ時みたいになる。

 こんな日、外で働いている人には気の毒だが、そこまで吹くと、胸中なにかワクワクするものもあって、窓の外を眺め「きょうはすごい。」などと、おもわず感激したりする。
 こんなことも年に2、3回あるだろうか。これから本格的なからっ風の季節になる。
クルミのテーブル:2000年12月15日
 クルミは、鬼グルミと沢グルミと二種類あって、ふつう家具に使うのは鬼グルミの方。色が白くて柔らかい沢グルミは、量販もののスリコギに使われている他はあまりみかけない。
 ふつう、クルミといえば鬼グルミのことを言うことが多い。
 楢や欅から比べると少し柔らかい鬼グルミも、まあ家具材としては中ぐらいの硬さか。色は、肌色ぐらいのものから、赤茶色のものまでバラツキはあるが、大体は濃いほうである。北米には、ウォルナットという黒檀のように色の濃いクルミもある。
 クルミは加工性も悪くないし、色が好きなので、材木市場などで見ると欲しくなる木である。

 今回のテーブルはそのクルミの二枚剥ぎ、長さは2.4mある。片方の端は壁に固定して、もう片方にだけ脚がある。ちょっと変則的だが、建築がらみでは、こういうテーブルもよくある。一本足でも持たせられるので足元がすっきりするし、予算的にも少し安く作れるのがメリット。
 ただ、部屋の模様替えや、万が一の引越しのときもテーブルは動かないので、そういった覚悟はいる。

 こんなクルミのことを書いていたら、高崎の長谷川さんから偶然クルミをいただいた。もちろん実の方。自宅の庭で採れるそうである。
 そういえば、となりの長野県では、屋敷内にクルミが植えられているのをよく見かける。ちなみに、ここ群馬県は栗が多い。 
記念の額:2000年12月5日
 今朝カーテンを開けたら、外はまっしろ、畑も車もまっしろに霜が降りている。
 8時すぎに工房へ行って温度計を見ると、4℃。ダルマストーブに火をつけるも、焚いても焚いてもなかなか温度は上がらない。
 工房の建物は50坪程あって、しかも屋根裏(天井は無い)まで6メートル近くあるから、ストーブひとつでは力不足で無理もない。
 「ひろくっていいねー。」なんて、ふだんうらやましがられる工房も、冬は小ぢんまりした所がいい、などと贅沢なことを思ってしまう。

 いまは額づくりをしている。中に葉書の入るB5ぐらいの大きさの額。一枚板をくりぬいてつくる。カーブのついた内側は、機械は大して使えないので、ノミと豆鉋で仕上げていく。いわゆる刳り物の仕事、これなら2坪もあればできる。
 この額は、家の新築の記念に配られるそうである。なにか残るものをということで、材料はそれまで住んでいた家の梁材の欅と松をひき直してつかっている。
 古材も製材すれば、中はもとのきれいな色が出てくる。が、実際使うとなると色々とあって、無傷でとれる所はそう多くない。今回は材料に余裕がなかったので、一部に木の割れとか虫喰いがある板も使わせてもらっている。古いくぎ跡やかつてのほぞ穴なんか額の中にあるものもある。それはそれで、なかなか遊びがあっていい。そんな額が50個、もうそろそろできる。
てっぽう:2000年11月22日
 カミキリ虫の幼虫のことをてっぽうと呼んでいる。木のなかに入り込んで木に穴をあける。
 鉄砲玉が貫いたような穴だから、てっぽう。
 そう思っているが、なにか別の由来があるのかもしれない。

 工房が静かな日は、乾燥を終えて中に立てかけてある板から、「カリ、カリ、カリ」と、音が聞こえる。木の皮の下、いわゆるシラタをてっぽうが食べている。
 ふつう、木のシラタは使わないで落としてしまう。たいていはここを食っているので問題はないが、たまには深く入り込んでいるやつもいる。
 音のするあたりの外皮を引き剥がすと、2センチぐらいの、ちょうどハチの子ような白い幼虫が出てくる。幾匹もいることがある。

 「てっぽうは食ってしまう。」と言う、勇ましい材木屋さんもいた。フライパンで炒って、醤油をちょっとたらして食するそうだ。
 あっけにとられて、味のほうは聞きそびれてしまったが、どうだろうか。カタキをとったようで気分はいいかもしれない。
 残念ながら僕はハチの子すらダメである。

 このごろは工房も寒くなって、てっぽうも冬眠中なのか「カリ、カリ、カリ」という例の音はしてこない。
紅葉:2000年11月8日
 天気がよければ、工房から赤久縄山(あかくなやま)や稲含山(いなふくみやま)の紅葉が見える。これから半月ぐらいかけて、このあたりまで紅葉が降りてくる。
 蒟蒻(こんにゃく)畑では今年もまた芋掘りが始まった。蒟蒻もひところ程の値は付かないらしく、工房のまわりも今は色々な物が作られている。
 先日東隣の畑で、おじさん(工房の大家さん)が見慣れないものを植えている。聞けばブルーベリーだと言う。世につれて作物も変わっていくらしい。

 今月は数モノをやっている。椅子が20脚余り。これが終わると葉書額が50個。どちらも木工を始めた頃から繰り返し作っている。
 定番の仕事なので、デザインや作り方で考え込む事もない。ただひたすらに、つくっている。
ダルマストーブ:2000年10月29日 
 朝夕が寒くなってきた。
 きのうストーブを出した。仕事で出るコッパなどをくべる鋳鉄のダルマストーブ。小学校時代を思い出して懐かしがる世代もあるが、これは今も売っているもの。このあたりではホームセンターでも見かける。
 
 午後は、テーブルの納品に板倉町というところへ行った。群馬県の東の端、隣はもう栃木県だ。
 新築のAさん宅は建築家星野勝利氏の設計で、ハウスメーカーの家が並んだ住宅団地の中にあって、すぐそれとわかる。
 家の中は採光が多く取ってあり、素木(しらき)の構造材と漆喰壁のコントラストが明るい。ワンルームというわけではないが部屋を小さく区切っていないのでとても開放感がある。、
 
 工事をしていた人の手も借りて、三人掛りでテーブルを運び入れた。帰り道、途中館林を過ぎたあたりで雨になった。
問い合わせ:2000年10月26日(木)
 最近、似たような問い合わせがふたつあった。
 はじめは、1m20cmぐらいの長さのテーブルが欲しいというもの。もうひとつの電話は、3人掛けの長いすを作って欲しいという内容だった。
 どちらの人も、作りたい物の大きさを言って「それで、いくらぐらいで出来るんでしょうか?」と言われた。

 以前納めた物と同じ物を作るのなら、調べればすぐ値段はわかるが、この場合大きさだけでは答え様がない。もう少し具体的にどういったものが欲しいのか尋ねてみても、電話ではなかなか伝わってこなかった。
 二人とも近くの人だったので、やはり一度お会いして打ち合わせをしたい、予算があれば遠慮せずに言ってほしい。と、このときはお話した。

 作ったものの写真など、資料を見ながら話をすれば、具体的な形が見えてくると思うし、工房へ来てもらえれば、使う材料も実際見て決めることができる。
 そして見積もりをして、すんなり通ることもあれば、変更をして予算とすり合わせをすることもある。ぜんぜんダメなこともある。でも、それはしょうがない。

 ショールームとか立派なカタログでもあれば、もう少し簡単に事が運ぶのだろうが、手順としてはこういうことなので、面倒がらずに相談してもらえればと思う。

最後のミズナラ:2000年09月29日(金)
 先日ミズナラの丸太を買った。伐採されてから1年程たっているらしく、皮がとれて色も少し黒ずんでいる。しかし紛れもなく国産のミズナラである。

 去年あたりから、もう山から木が出てこなくなると言う話を関係者から聞いていたが、ほんとうに今年は少なくなってしまった。
 これは家具で使う広葉樹のことで、建築材であるスギ、ヒノキなどの針葉樹とはまた事情が違っている。

 確認のため営林署の高崎支局に聞いてみると、国有林では皆伐をしないことになったのだと云う。
 自然環境の保護の観点から、全国的になされた決定で、間引きのような伐採は続けるらしい。

 東北や北海道の山のことは解らないが、群馬の山では、広葉樹の有用材があるのは山の奥のそのまた奥といったところである。伐採エリアを決めて、木を運び出すための索道を築き、そのあたり一体を伐るという皆伐じゃないと採算がとれないことは容易に想像がつく。
 1本何百万円もするケヤキのような樹なら手間暇かけて運び出すこともあるだろうが、一般の家具材はひと山で幾らという世界なのである。

 ミズナラはブナと並んで山の代表的な樹だ。このあいだ買ったものは、まだ国有林を伐採していた頃の最後のものだろう。これから先、このたりの市場にミズナラが出てくることは無いかもしれない。

 今はナラもロシアや中国のものが多く出回っていて、大手の家具メーカーやフローリング工場など大量に使うところは外国産に頼っているらしい。
 木が無ければ、そういう物にシフトいくのは当然だが、彼の地にも自然環境の保護という問題があるはずである。
 需要はあっても、自分の国の森は切らせない。でも外国の森のことは知らないではかえってタチが悪いと思うのだが。     9月28日

リンク:2000年09月14日(木)
 建築が好きだ。これからは建築の時代だと思っている。
もちろん自分では設計などできないので、あれやこれや考えているだけ。
仕事がら建築家と話す機会もあるので、そんなときにちょっと質問したりしてみる。いわば門前の小僧というわけだ。

 昨年あたりから一緒に仕事をさせてもらうようになった建築家に徳井さんがいる。徳井さんは本や雑誌に文章を書いたり、家づくりの学校をやったり、いろいろ活動的な人だ。本業の設計もとてもいそがしそう。ぼくがたいした宣伝もしないで仕事をして居られるのもこういう人に負うところが大きい。

 そんな徳井さんの建築の特徴のひとつはは広葉樹をたくさん使うこと。
家具やフローリングはもちろん柱や梁,框などなど。
樹の種類もいろいろだが「欅の大黒柱」と云った趣味ではない。

 使い方も大胆。節や割れなど気にかけないところがある。
その点家具の職人は慎重なもので、反ったらどうしようとか欠点があるから使えないとか ついつい考えてしまう。

 建築にはまた違った発想があって教わることが多い。
今度徳井さんのホームページとリンクしようと云うことになった。
こちらも、早速片平さんにお願いして工房紹介の後ろに付けてもらった。

 これから家を建てようというような人は必見である。
ホームセンター:2000年09月07日(木)
 きのうは太田市で打ち合わせの後、帰りにウワサのジョイフルホンダ
へ行ってきた。
 日本最大のホームセンターというだけあって確かにデカイ。建物が平屋なので、自転車に乗って買い物したくなるような広さ。
 ちなみに僕は、最初パイプクランプ用のガス管を買ってネジ切りをしてもらい(これがとても安かった。)、次の画材売り場までは遠くてとて歩く気にならないので車で移動した。
 駐車場の端に止めるとこうなります。貸し自転車があるといいんだけどね。
すみません:2000年09月05日(火)
 ホームページが開設してメールが来始めたのですが、こちらの手落ちがあってうまく届かないことがありました。 ご迷惑をおかけしました。
 片平さんが直してくれたので、今はもう大丈夫だと思います。
きのうは:2000年09月03日(日)
2日、午前中は建築家の徳井さんと来年1月に作るテーブルなどの打ち合わせ。そのあと現場と材料を見に隣の富岡市へ。   
甘楽木工房ホームページ縁起 :2000年09月01日(金)
ホームページなどと言っても、パソコンを触ったことも無い私には、どこか他所の世界の話と思っていました。
 友達の片平さんからホームページをつくらないかと話があって、まずパソコン買わねばと考えたのが今年の5月ごろ。6月にパソコンが送られてきて、あとは殆ど手とり足とり教わりながらメールのやり取りとインターネットができるようになったのは最近のことです。
 その間にも片平さんは着々とホームページを作ってくれていたのですが、僕の方の写真や文章の準備が遅れに遅れて、何とか全体が姿を見せたのは8月も最後の日でした。そして予定の9月1日オープン。なんとか間に合いました。
 ぼくはもちろんの事、彼も本格的にはこれが初めてのホームページ作りなので、いろいろ不備な所もあるかと思います。
 少しずつ手を入れてよくしていくつもりです。なにか気がついたことがあれば教えてください。